55:皇帝と皇太子
文字数 2,138文字
しばらく宰相とルキアを在席させたまま、婚約披露後の世間の動向についてを語り合っていたが、やがて皇帝であるユリウスが人払いを命じる。
宰相とルキアが退席すると、サロンにはルカとユリウスの二人きりになった。
ルカはいよいよ本題かと思ったが、ユリウスは緊張した様子もなく、横たわるようにかけていたカウチから立ち上がると、奥のキャビネットへ歩み寄る。
サロンを統一する美しい装飾と同じ仕様の飾り棚。ルカが何気なく絡みあう蔦を掘り出した端正な模様を眺めていると、ユリウスの手にワインの瓶が握られている。
事前に用意させていたのか、ワインを嗜むための一揃いが整っていた。
「陛下、私はこの後にも職務がございます」
「宰相には伝えてある。心配せずともルキアが調整するだろう」
長い話になるのかとルカが警戒すると、ユリウスがワイングラスをルカの前に置く。小気味の良い音を響かせて瓶のコルクを抜くと、なみなみと芳醇な赤を注いだ。
丸みを帯びたグラスの表面が、サロンの抑え目の照明を映して光っている。
向こう側を映す澄明さが渋い赤に満たされていくと、自分の影が浮かび上がった。
ルカは再びグラスからユリウスに目を向ける。
自分に似た雄々しく麗しい容姿。目が合うとユリウスは自嘲的に微笑んだ。
労わるような色が滲みでているのを感じて、ルカの心が暗く沈む。
第零都で真実を見せられた時と同じだった。
ユリウスがこの場にワインを用意させていた真意がわかった気がした。
「美しい女性だったな」
長椅子にかけてから、ユリウスは自身のグラスにもワインを注ぎながら、他愛ないことのように呟く。ルカにはスーのことなのか、ルクスの息女のことなのか判断がつかない。
「傾国の美女にふさわしい美貌だった」
ひやりとした戦慄が走る。細い針で胸を貫かれるような、鋭利な不安が胸を横切った。
「スー王女のことを仰っているのですか」
ユリウスがスーを目にしたのは、婚約披露前の儀式の時だけである。報道で目にしたこともあるのかもしれないが、スーの美貌は誰もが一目で理解する。
「もちろんそうだ。あれだけの美貌であれば、後継の証とは関係なく欲しがる者が現れそうだな」
「これからもクラウディアの火種になると?」
「火種というよりは、元からサイオンの王女はクラウディアにとって諸刃の剣のようなものだ」
諸刃の剣。
ルカも同じ感想を抱いている。何も言えずにいると、ユリウスがワインを口に含んだ。ルカも自分の前に置かれたグラスに手を伸ばす。
芳醇な香りと裏腹に、舌先に触れた赤は渋く苦い。暗い予感がルカの味覚を殺してしまう。酔うためには相当な量を飲まねばならないだろうと、ルカは関係のない思考を働かせた。
「守護者が私のところにもやって来た」
「リン殿が?」
「婚約披露の時に罠を仕掛けた者が、わざわざ王女を生け捕りにしようとした事には、二通りの意味が考えられると言っていた」
「どういうことでしょうか?」
「普通に考えれば誘拐よりは暗殺の方がたやすい。だから誘拐を選んだ場合には意味があるというのが彼の考え方だ。王女の美貌に目が眩んだ欲望の権化か、王女の本当の意味を知っているか、どちらかだろうと」
「私と陛下以外にもサイオンの秘密を知る者がいるということでしょうか」
「守護者は、その可能性もないと言い切れない、そういって面白そうに笑っていたが」
ユリウスも小さく笑う。ルカはその事実が抱える危機感に、指先がつめたくなっていた。
サイオンに関わる掟を知る者がいるかもしれない。
信じたくはないが、ルカの脳裏に亡き父の姿がよぎる。
「陛下、守護者とはいったい何者なのですか? 彼もサイオンの全てを知っているのでしょうか?」
「わからない。だが、おそらく知っているのだろうな。守護者は王女を護るために存在する。いつの時代にも、サイオンに王女が誕生するたびに、必ず同じように現れるらしい」
「それはリン殿が?」
「いや。皇家に語り継がれてきたことの一つだ。サイオンの人間は天女に役割を設計 されている。だから、何があってもクラウディアとサイオンの関係が断たれることはない」
「――何があっても」
何があっても両国の婚姻は繰り返される。
まるで呪いのように。
「私も守護者に会って、すこし意味を理解した。王女はサイオンによって固く守られているのだろう。クラウディアで役割を果たすために」
役割。ルカにおぞましさだけを刻みつけた、第零都での光景。
「しかし陛下。彼はスー王女の幸せを願っているようでしたが」
ユリウスがグラスをくゆらせながら答える。
「幸せの定義は立場によって異なるものだよ、ルカ」
ぞわりと、ルカの胸底から恐怖にも似た不安が立ちのぼる。
守護者の真の目的が、王女に役割を全うさせることであるのなら。
(立場によって変わる……)
リンの仄暗い眼光を思い出した。
(スーの気持ちを裏切らないでほしいな、ルカ殿下)
彼が守護者でありながら、同時にスーを監視しているのだとすれば、あの言葉の意味が見事に反転する。
リンの願うスーの幸せが、帝国の礎になることを指すのであれば。
彼はスーの心を掌握しろと言っているのではないか。
いずれ愛という名の献身で、彼女が全てを受け入れるように。
宰相とルキアが退席すると、サロンにはルカとユリウスの二人きりになった。
ルカはいよいよ本題かと思ったが、ユリウスは緊張した様子もなく、横たわるようにかけていたカウチから立ち上がると、奥のキャビネットへ歩み寄る。
サロンを統一する美しい装飾と同じ仕様の飾り棚。ルカが何気なく絡みあう蔦を掘り出した端正な模様を眺めていると、ユリウスの手にワインの瓶が握られている。
事前に用意させていたのか、ワインを嗜むための一揃いが整っていた。
「陛下、私はこの後にも職務がございます」
「宰相には伝えてある。心配せずともルキアが調整するだろう」
長い話になるのかとルカが警戒すると、ユリウスがワイングラスをルカの前に置く。小気味の良い音を響かせて瓶のコルクを抜くと、なみなみと芳醇な赤を注いだ。
丸みを帯びたグラスの表面が、サロンの抑え目の照明を映して光っている。
向こう側を映す澄明さが渋い赤に満たされていくと、自分の影が浮かび上がった。
ルカは再びグラスからユリウスに目を向ける。
自分に似た雄々しく麗しい容姿。目が合うとユリウスは自嘲的に微笑んだ。
労わるような色が滲みでているのを感じて、ルカの心が暗く沈む。
第零都で真実を見せられた時と同じだった。
ユリウスがこの場にワインを用意させていた真意がわかった気がした。
「美しい女性だったな」
長椅子にかけてから、ユリウスは自身のグラスにもワインを注ぎながら、他愛ないことのように呟く。ルカにはスーのことなのか、ルクスの息女のことなのか判断がつかない。
「傾国の美女にふさわしい美貌だった」
ひやりとした戦慄が走る。細い針で胸を貫かれるような、鋭利な不安が胸を横切った。
「スー王女のことを仰っているのですか」
ユリウスがスーを目にしたのは、婚約披露前の儀式の時だけである。報道で目にしたこともあるのかもしれないが、スーの美貌は誰もが一目で理解する。
「もちろんそうだ。あれだけの美貌であれば、後継の証とは関係なく欲しがる者が現れそうだな」
「これからもクラウディアの火種になると?」
「火種というよりは、元からサイオンの王女はクラウディアにとって諸刃の剣のようなものだ」
諸刃の剣。
ルカも同じ感想を抱いている。何も言えずにいると、ユリウスがワインを口に含んだ。ルカも自分の前に置かれたグラスに手を伸ばす。
芳醇な香りと裏腹に、舌先に触れた赤は渋く苦い。暗い予感がルカの味覚を殺してしまう。酔うためには相当な量を飲まねばならないだろうと、ルカは関係のない思考を働かせた。
「守護者が私のところにもやって来た」
「リン殿が?」
「婚約披露の時に罠を仕掛けた者が、わざわざ王女を生け捕りにしようとした事には、二通りの意味が考えられると言っていた」
「どういうことでしょうか?」
「普通に考えれば誘拐よりは暗殺の方がたやすい。だから誘拐を選んだ場合には意味があるというのが彼の考え方だ。王女の美貌に目が眩んだ欲望の権化か、王女の本当の意味を知っているか、どちらかだろうと」
「私と陛下以外にもサイオンの秘密を知る者がいるということでしょうか」
「守護者は、その可能性もないと言い切れない、そういって面白そうに笑っていたが」
ユリウスも小さく笑う。ルカはその事実が抱える危機感に、指先がつめたくなっていた。
サイオンに関わる掟を知る者がいるかもしれない。
信じたくはないが、ルカの脳裏に亡き父の姿がよぎる。
「陛下、守護者とはいったい何者なのですか? 彼もサイオンの全てを知っているのでしょうか?」
「わからない。だが、おそらく知っているのだろうな。守護者は王女を護るために存在する。いつの時代にも、サイオンに王女が誕生するたびに、必ず同じように現れるらしい」
「それはリン殿が?」
「いや。皇家に語り継がれてきたことの一つだ。サイオンの人間は天女に役割を
「――何があっても」
何があっても両国の婚姻は繰り返される。
まるで呪いのように。
「私も守護者に会って、すこし意味を理解した。王女はサイオンによって固く守られているのだろう。クラウディアで役割を果たすために」
役割。ルカにおぞましさだけを刻みつけた、第零都での光景。
「しかし陛下。彼はスー王女の幸せを願っているようでしたが」
ユリウスがグラスをくゆらせながら答える。
「幸せの定義は立場によって異なるものだよ、ルカ」
ぞわりと、ルカの胸底から恐怖にも似た不安が立ちのぼる。
守護者の真の目的が、王女に役割を全うさせることであるのなら。
(立場によって変わる……)
リンの仄暗い眼光を思い出した。
(スーの気持ちを裏切らないでほしいな、ルカ殿下)
彼が守護者でありながら、同時にスーを監視しているのだとすれば、あの言葉の意味が見事に反転する。
リンの願うスーの幸せが、帝国の礎になることを指すのであれば。
彼はスーの心を掌握しろと言っているのではないか。
いずれ愛という名の献身で、彼女が全てを受け入れるように。