45:誘拐劇の痕

文字数 2,120文字

「帝国のことは聞きたくないって、よく怒っていたのに?」

「それは、色々と思い悩むのが嫌だっただけで」

「恋は盲目って本当にあるんだね」

「叔父様!」

「あのスーがねぇ」

「いったい何が仰りたいんですか?」

「いや、思ったよりずっと幸せそうで驚いただけだよ。スーのことだから悲壮な顔はしていないだろうと思っていたけど、まさか、こんな恋する乙女になったスーを見る日がくるとは」

 帝国に来てからは、ルカを中心に世界が回っている自覚があった。彼に首っ丈になっていることは、リンにはすぐに見抜かれたようだ。

「たしかに殿下は綺麗な顔をしているけど……」

 リンが臆面もなく隣のルカの顔をまじまじと眺めている。

「叔父様、ルカ様に失礼です」

「殿下は、スーの大好きな白馬の王子様みたいな方だよね」

「叔父様!」

 スーがリンを睨んでいると、彼は笑いながらポンとスーの頭を叩いた。幼いころからよくある仕草だった。

「僕からは二人に白馬を一頭贈るよ」

「白馬? 突然何を言い出すの?」

「殿下は馬くらい飼えるよね」

 ルカもリンの真意がわからないらしく、戸惑った顔をしている。

「はい。……乗馬用の厩舎がありますが」

「そう、じゃあ殿下は馬も乗れるんだ。さすがだね、良かった」

「叔父様?」

「婚約祝いに贈るよ。おとぎ話に出てきそうな飛び切り美しいやつをね」

 リンが何を考えているのか、スーには全くわからない。怪訝な顔していると、寝台のスーと同じ目線になるように、リンが身を屈めた。

「僕はもう行くけど、元気でね、スー。またね」

「叔父様は、次はどこへ行くの?」

「さぁ、秘密」

 せっかく会えたのに、束の間の再会である。でも、それがとてもリンらしい。いつも不思議な人だなと思うが、スーは目覚めた時にリンがいてくれて良かったと思う。あんな出来事の後なのだ。動揺していないと言えば嘘になる。

 サイオンの雰囲気をまとう叔父に、少し支えてもらえた気がした。スーにとっては昔も今も、気心の知れた心強い叔父である。

「顔を見せてくれてありがとう、叔父様」

「うん。僕もスーに会えて良かった。……ユエン、あとは頼むよ」

「はい、リン様」

 寝台の傍らに控えているユエンが、リンに深く頭を下げた。

「じゃあ、ルカ殿下。ちょっといいかな。厩舎を見せてもらいたいんだけど」

「?――はい」

 リンがルカを誘って部屋から出ていく。オトが「失礼します」と、柔和な笑顔を残して二人の案内のために退出した。
 スーは再びユエンと二人きりになった。室内に賑やかさがなくなると、再びごしごしと唇を拭ってしまう。

「姫様、そんなに口元を擦っては、唇が荒れてしまいますよ?」

「え? あ、そうね」

「少し横になられますか?」

「いいえ、大丈夫よ」

 答えると、ユエンがそっとスーの肩に薄めの上着を羽織らせてくれる。

「立派でした、姫様」

「ユエン?」

「でも、もう大丈夫です。今は姫様の傍には私しかおりません」

 ユエンの温かい手が、労るようにスーの手を握った。

「今なら、怖かったと泣いても誰にもわかりません」

「――……」

 的確に見抜かれて、スーの視界がじわじわと滲み始める。
 ルカの世界を知るための経験だったと、そう割り切ると決めているのに、込み上げる恐れと嫌悪感を拭いきれない。唇を拭ってみても、消えない。

 気持ち悪い。そして、苦しくて、とても恐ろしかったのだ。

「っ……」

「大丈夫だとルカ殿下に笑えた姫様は立派でした。きっと殿下を支える強く逞しい皇太子妃になられます」

 ユエンが認めてくれるなら、自分は目指した道を見失わず歩いている。
 ルカの隣に寄り添える皇太子妃になるために。

「でも、今は怖かったと泣いても良いのですよ」

「……な、内緒よ」

「はい。私は何も見ておりません」

 ユエンの言葉が免罪符だった。
 試練を糧として受け止める前に、スーは少しだけ自分の弱さを見つめなおす。

(本当は、大丈夫じゃない)

 堪えきれず、スーはぼろぼろと涙をこぼして泣いた。声を上げないように嗚咽を我慢していたが、すぐに抑えきれなくなる。

 まだ鮮明に思い出せるのだ。

 じわじわと広間の床に広がった血溜まり。目の前で絶命した護衛の顔。壁に飛び散った血飛沫。
 肩を外された激痛も、みぞおちにめり込んだ拳の悶絶するほどの痛みも。

 窒息するように口を塞がれた苦しみも、にがく気持ちの悪い味も、全て克明に覚えている。

(――怖かった……)

 刺すような冷酷な光を宿した目。救いのない話。
 絶望しながら、意識が引き込まれていく感覚。

 もしあのまま連れ去られていたら、きっとルカの元には戻れなかった。
 いったい、どんな末路を辿ることになったのか。考えるだけで、スーの心の奥底が凍りつく。

「う、……」

 ぎゅうっと血が止まりそうな強さで、スーは重ねた両手を握りしめた。ぽつぽつと手の甲に涙が落ちる。

「姫様」

「ユエン。……これは、涙じゃ、……ないわ」

「はい」

 ユエンが慰めるように、スーの小さな背中に手を添えた。

(弱音を吐くのは、今だけよ……)

 スーは声をあげて泣きじゃくる。
 遮られることのない嗚咽が響き、小さな肩が震えた。

 悲しみと恐れを吐き出すような、何かを振り絞るような泣き声が、しばらく室内を満たしていた。
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