86:何もみえていなかった

文字数 2,361文字

 彼はそのまま甲板を進んで、さらに近づいてくる。
 自然な様子から、どうやらガラスに反射する光景を眺めているのだと気づいた。

 スーが肩の力をぬくと、ルカは甲板の柵のまえで歩みをとめた。客室の壁面ガラスに遮断されているだけで、彼はすぐそこにたたずんでいた。

 遠くで動力の稼働音がひびいている。わずかな振動が触れるだけで、外界の音は客室にはとどかない。

 波の音も海鳥の泣き声もきこえない。船室の防音効果をかんじているのに、スーはなぜか声をだしてはいけないような気がして黙っていた。

 何かを呟くと、ルカに聞こえてしまうのではないかと思ったのだ。
 それほどに彼との距離はちかい。

 ヘレナとルキアも、じっとルカの様子を見守っていた。

 ブリッジの甲板をかこむ柵に手をおき、ルカは彼方の水平線を眺めているようだった。気持ちをおしはかることを拒むような無表情な横顔に、するりと一筋の感傷がよぎる。あっと思った時には、スーの心も押しよせたさざ波に浸食されていた。

 スーは思わず立ちあがって、窓ぎわへと身をよせる。
 水平線から上空へと視線をなげ、空を仰ぐルカの端正な横顔。

 スーの視界の中で、見たこともない絶望が、みるみるうちにルカの美しい顔を犯していく。

 手に持っていた花束を、ルカは高く投げはなった。花束はいくばくかの花弁を散らしながら、放物線をえがくように舞いあがり、波間へと消えた。

(――申し訳ありません……)

 聞こえるはずのないルカの声が、スーには聞こえた。聞こえた気がした。

 目の前にたたずむルカの横顔。かすかに動いた唇が、なんども繰り返す。
 申し訳ありませんと。

 じかに触れることのできない呟き。声は何もとどかない。とどかないのに、スーは自分の視界が揺らめくのをかんじた。
 ルカの抱えている後悔と罪悪のすべてが伝わってくる。

(ルカ様……)

 飛びだしていって、彼をだきしめたい。
 こみあげた感情のやり場がなく、スーはぎゅうっと強く手を拳に握りしめて立ちつくす。

(わたしはいったい何をみてきたの?)

 帝国にきてからの月日、ルカの隣にたてるような皇太子妃をめざしていた。彼のそばに寄りそいたいと励んできたつもりである。

 出会ったばかりの頃よりも、少しずつ彼に打ちとけはじめている気がして、有頂天になっていた。

(……ルカ様のことを、何もわかっていない。わかろうとしていなかった)

 美しく気高いだけの、幻の虚像をみていたに等しい。
 優しく素敵な、非のうちどころのない皇太子。

 心をときめかせて憧れるだけの対象。

(ルカ様が強いなんて――)

 スーはうつむいて固く目をとじる。哀しくて、悔しくて、涙がこぼれた。

(恥ずかしい!)

 何も見えていなかった。

 帝国のためにすべてを割りきって立つ皇太子としの姿勢。時として人々が畏怖するほどの決意をもって、成しとげてきた功績。最善を望むための冷酷な顔。

 皇太子としてのルカのふるまいのすべて。それが仮面であることをスーも理解していなかったのだ。これでは彼に悪評を立てる者たちと何も変わらない。

 ルカは何も割りきってなどいない。犯した罪悪の全てが胸の内に残りつづけているのだ。

 後悔や悲嘆を、幾重もの仮面をかぶってかくし、みえなくしてきただけ。
 決して強くはない。特別でもない。彼も一人の人間なのだ。

(そんなことにも気づかず、ルカ様を支えたいなんて)

 自分に怒りがわく。なんて中身のない目標を掲げていたのか。

 ルカの強さは、スーの思い込みが形作っていた強靭な精神ではない。
 自身の弱さを認めて、なお強くあろうとする意志にある。

 悔いても歩みを止めない、茨の道をいく覚悟。

「……スー様」

 唇をかみしめて悔しさに涙していると、ヘレナに肩をだかれた。

 スーはヘレナとルキアの意図を理解した。

 恋に恋する少女のように、今まではルカへの憧れだけしか持っていなかった。
 おとぎ話に出てくる白馬の王子様を愛でるように。

 きれいな上澄みだけをすくっていたのだ。底に沈んでいる真実を、何もみていなかった。
 今となっては、恥ずかしくてたまらない。

「ルキア様とヘレナ様には、見えていらっしゃったのですね」

 ヘレナのさしだした美しい意匠のハンカチを手にとり、スーは涙をふいた。

「ルカ様の本当の姿が。……そして、何も見えていないわたしに、それを伝えるために、今日は見せてくださったのですね」

 真っすぐに前をむいて甲板にたたずむルカをみると、綺麗な横顔は無表情にもどっていた。もう何の感傷もうつさず、感情を読みとることもできない。

 潮風にあおられて、きらきらと金髪がたなびくように踊っている。
 もし、今スーが声をかけても、ルカはいつものように優し気にほほ笑んでくれるだけなのだろう。

「がっかりなさいましたか?」

 ヘレナの問いかけに、スーは激しく首をふった。

 悲嘆と後悔、そして罪悪に苛まれたルカの切なげな表情を、スーは決して忘れない。

 悔しさと一緒にこみあげた感情は、憧れをつき破って、新たに胸を満たし、いっぱいにした。
 駆けよることができれば、スーはルカを抱きしめていた。

「わたしはルカ様が大好きです」

 独りでたたずむ彼をみて、愛しいと思ったのだ。

 とても愛しい人だと。

 身が焦げつきそうなほど切なく、(かな)しい。
 ときめきよりも熱をはらんだ甘い激情が、怒涛のいきおいでスーの心を埋めてしまった。

「とても愛しい方だと思いました。わたしはこれまで以上に、ルカ様をささえる皇太子妃になりたいと願います」

 罪も悲嘆も後悔も、下される罰さえも、すべてをわかちあえるような伴侶になりたい。たとえ茨の道であっても、くじけることなくルカとともに歩み、いつまでも寄りそえるように。

 彼がくつろぎ、ほほ笑むことができる場所を守りたいと、スーはつよく思った。
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