44:ちぐはぐな感情
文字数 2,120文字
シャンデリアの下を這うように広がった血だまりを思い出すと、今でも心が凍り付きそうになるが、ルカが目の前にいるなら、もう赤く染まる記憶に恐れることもない。
変わることのないルカの美しい顔を見ていると、スーは笑顔になってしまう。
(ルカ様の顔を見ると、いつも顔がニヤけてしまうわ)
幼い頃からスーをよく知っている叔父のリンは、そんな姪の様子を見抜いているのか、口元に手を当てて、笑いをかみ殺していた。
(叔父様にはバレバレだわ。でも、ニヤけてしまうのだから、仕方ないでしょ)
肩を震わせている叔父のリンを、スーは軽く睨んでしまう。
「スー、婚約披露では、恐ろしい思いをさせてしまい、怪我まで負わせて申し訳ありません」
ルカが神妙な面持ちで詫びる。スーはニヤついている場合ではないと、顔面を引き締めた。
「そんな、ルカ様が謝ることではありません」
「いえ、私の警戒が甘かった。……せっかくの晴れの舞台に。本当に申し訳ありません」
「そんな顔をしないでください。ルカ様も大変だったのに、謝るなんておかしいです。わたしは怪我も大したことないですし、大丈夫ですから」
大丈夫。スーの本心でもあるが、ルカの声を聞いていると安心したのか、じわりとこみ上げてきたものがあった。
今回の事件は帝国を知るための経験だった。そう割り切って考えようとしていたのに、スーは思っている事とちぐはぐになる自分の感情に戸惑う。
(ルカ様も無事で、わたしも無事に戻ってこられた)
それが全てなのに、それで良かったのに、ルカの声を聞いていると、急に感情の手綱がさばけなくなる。
やはり途轍もなく恐ろしかったのだと、唐突に理解した。
(あ、ダメダメ。絶対に泣いたりしない)
スーはこみ上げてきたものを強い気持ちで呑み込んで、明るい声が出るように振舞う。
「とにかくルカ様のせいではありませんので、そんな顔をしないでください! わたしはルカ様の笑顔を見ている方が元気がでます!」
「スー……」
「ところで、今回の事件の首謀者や刺客は捕まったんですか?」
めそめそするのは自分らしくない。ルカにも心配をかけてしまう。スーは現実的なその後への興味に意識を傾けた。
「刺客は捕えましたが、元凶には届きませんでした。見当はついていますが、つながる証拠がないというのが現状です」
「それどころか、世間では殿下が糾弾されてるよ」
「え? ルカ様が?」
「リン殿、それは……」
「スーはあなたの妃になる覚悟を持っている。現実を見せておかなきゃ駄目だよ」
ルカは口を閉ざすが、スーに負担をかけるような情報を晒したくはないのだろう。綺麗な顔に不服そうな色がある。眉間に皺が寄っていた。
リンは鷹揚な様子で、構わずに続ける。
「王宮で殿下が狙われたことには全く触れず、王宮と軍を統括する殿下の管理能力が問われてる。帝国元帥を更迭すべきだと。今日も皇太子の処遇について、帝国議会で取り上げられているのでしょう?」
「そんな!」
「そういうわけで、殿下は今、皇帝陛下の王命を受けて謹慎中。だから、今こうしてスーの傍にいられるってわけだよ」
たしかにスーも、目覚めてすぐに多忙なルカが現れるとは思っていなかった。だから仰天したのだが、そんな理由で顔を見られる機会が得られたのであれば、素直にニヤつけない。
ルカがふうっと吐息をついて、心配を顔面に張り付けたスーを見て笑う。
「心配はありません」
「本当ですか?」
「議会には皇帝陛下とネルバ侯がいます。ネルバ候は貴族院の覇権をにぎっているに等しい派閥の筆頭です。軍関係の貴族を掌握していますし、連合院は専制政を好まない皇帝を支持している者が多い。私もネルバ候も皇帝を支持している人間なので、たやすく元帥の任を解かれることはありません」
「ネルバ候って……」
「スーも良く知っている筋肉紳士ですよ」
ガウス・ネルバを思い返してみるが、人柄からは全く威圧的な雰囲気がない。そんな圧倒的な権力を握っているようには見えないが、人は見かけによらない。
ガウスとルカの関係が良好であることは疑いようもないので、彼が味方であるなら信じられるし心強い。
「そういう事情なので心配はいりません。私は久しぶりに長期休暇をもらった気分でいます。実際、皇帝陛下もそういう意味を含ませて、私に謹慎を命じているようですし」
凛々しい軍装とは違い、私邸でのゆったりとした私服のせいか、スーには本当にルカが寛いでいるように見えた。
安心したのが伝わったのか、ルカが面白そうに笑う。
「しばらくは、スーを見舞いながらゆっくりと過ごします」
「本当ですか?」
「はい」
こういうのを不幸中の幸いと言うのだろうか。スーは降って沸いた幸運に目を輝かせるが、ふっと気持ちに影が差す。無意識に唇を手の甲で拭ってしまい、脳裏に嫌悪感がよぎった。
(あれ? 割り切ってかんがえているのに、まだ引きずっているのかしら)
自分に動揺していると、リンが大袈裟なほど呆れた声を出した。
「あんなに帝国を毛嫌いしていたスーがねぇ」
「リン叔父様! わたしは毛嫌いしていたわけではありません!」
ルカの前で突然何を言い出すのかと、スーは動揺を向こう側に推しやってすぐに否定する。
変わることのないルカの美しい顔を見ていると、スーは笑顔になってしまう。
(ルカ様の顔を見ると、いつも顔がニヤけてしまうわ)
幼い頃からスーをよく知っている叔父のリンは、そんな姪の様子を見抜いているのか、口元に手を当てて、笑いをかみ殺していた。
(叔父様にはバレバレだわ。でも、ニヤけてしまうのだから、仕方ないでしょ)
肩を震わせている叔父のリンを、スーは軽く睨んでしまう。
「スー、婚約披露では、恐ろしい思いをさせてしまい、怪我まで負わせて申し訳ありません」
ルカが神妙な面持ちで詫びる。スーはニヤついている場合ではないと、顔面を引き締めた。
「そんな、ルカ様が謝ることではありません」
「いえ、私の警戒が甘かった。……せっかくの晴れの舞台に。本当に申し訳ありません」
「そんな顔をしないでください。ルカ様も大変だったのに、謝るなんておかしいです。わたしは怪我も大したことないですし、大丈夫ですから」
大丈夫。スーの本心でもあるが、ルカの声を聞いていると安心したのか、じわりとこみ上げてきたものがあった。
今回の事件は帝国を知るための経験だった。そう割り切って考えようとしていたのに、スーは思っている事とちぐはぐになる自分の感情に戸惑う。
(ルカ様も無事で、わたしも無事に戻ってこられた)
それが全てなのに、それで良かったのに、ルカの声を聞いていると、急に感情の手綱がさばけなくなる。
やはり途轍もなく恐ろしかったのだと、唐突に理解した。
(あ、ダメダメ。絶対に泣いたりしない)
スーはこみ上げてきたものを強い気持ちで呑み込んで、明るい声が出るように振舞う。
「とにかくルカ様のせいではありませんので、そんな顔をしないでください! わたしはルカ様の笑顔を見ている方が元気がでます!」
「スー……」
「ところで、今回の事件の首謀者や刺客は捕まったんですか?」
めそめそするのは自分らしくない。ルカにも心配をかけてしまう。スーは現実的なその後への興味に意識を傾けた。
「刺客は捕えましたが、元凶には届きませんでした。見当はついていますが、つながる証拠がないというのが現状です」
「それどころか、世間では殿下が糾弾されてるよ」
「え? ルカ様が?」
「リン殿、それは……」
「スーはあなたの妃になる覚悟を持っている。現実を見せておかなきゃ駄目だよ」
ルカは口を閉ざすが、スーに負担をかけるような情報を晒したくはないのだろう。綺麗な顔に不服そうな色がある。眉間に皺が寄っていた。
リンは鷹揚な様子で、構わずに続ける。
「王宮で殿下が狙われたことには全く触れず、王宮と軍を統括する殿下の管理能力が問われてる。帝国元帥を更迭すべきだと。今日も皇太子の処遇について、帝国議会で取り上げられているのでしょう?」
「そんな!」
「そういうわけで、殿下は今、皇帝陛下の王命を受けて謹慎中。だから、今こうしてスーの傍にいられるってわけだよ」
たしかにスーも、目覚めてすぐに多忙なルカが現れるとは思っていなかった。だから仰天したのだが、そんな理由で顔を見られる機会が得られたのであれば、素直にニヤつけない。
ルカがふうっと吐息をついて、心配を顔面に張り付けたスーを見て笑う。
「心配はありません」
「本当ですか?」
「議会には皇帝陛下とネルバ侯がいます。ネルバ候は貴族院の覇権をにぎっているに等しい派閥の筆頭です。軍関係の貴族を掌握していますし、連合院は専制政を好まない皇帝を支持している者が多い。私もネルバ候も皇帝を支持している人間なので、たやすく元帥の任を解かれることはありません」
「ネルバ候って……」
「スーも良く知っている筋肉紳士ですよ」
ガウス・ネルバを思い返してみるが、人柄からは全く威圧的な雰囲気がない。そんな圧倒的な権力を握っているようには見えないが、人は見かけによらない。
ガウスとルカの関係が良好であることは疑いようもないので、彼が味方であるなら信じられるし心強い。
「そういう事情なので心配はいりません。私は久しぶりに長期休暇をもらった気分でいます。実際、皇帝陛下もそういう意味を含ませて、私に謹慎を命じているようですし」
凛々しい軍装とは違い、私邸でのゆったりとした私服のせいか、スーには本当にルカが寛いでいるように見えた。
安心したのが伝わったのか、ルカが面白そうに笑う。
「しばらくは、スーを見舞いながらゆっくりと過ごします」
「本当ですか?」
「はい」
こういうのを不幸中の幸いと言うのだろうか。スーは降って沸いた幸運に目を輝かせるが、ふっと気持ちに影が差す。無意識に唇を手の甲で拭ってしまい、脳裏に嫌悪感がよぎった。
(あれ? 割り切ってかんがえているのに、まだ引きずっているのかしら)
自分に動揺していると、リンが大袈裟なほど呆れた声を出した。
「あんなに帝国を毛嫌いしていたスーがねぇ」
「リン叔父様! わたしは毛嫌いしていたわけではありません!」
ルカの前で突然何を言い出すのかと、スーは動揺を向こう側に推しやってすぐに否定する。