106:天女の守護者と皇帝
文字数 2,123文字
ディオクレアの切り札がサイオンの思想抑制につながるという予測は、さすがに皇帝ユリウスにもルカにも考えが及ばなかった。
レオンの婚約披露はルカにとって最悪の事態を招いたまま終幕をむかえた。
翌日になって目にした報道も目を覆いたくなるほど皇太子への糾弾に染まっている。
世論がディオクレアの思惑どおりの反応をしているのは、火を見るより明らかだった。
まるで皇太子の手から王女を保護したかのような成り行きとして語られているのだ。
ルカはすべての予定を取りやめて私邸に引きこもっていた。
じっとしていることも苦痛だったが、今はどうすることが正解なのかがわからない。
やりきれない気持ちと後悔だけが渦巻いている。
「殿下、ユリウス陛下から王宮に参上するように王命が届いております」
ルカの書斎で端末から報告を行っていたルキアが顔をあげる。
悪意に満ちた記事に目を通していたルカが彼を見ると、知的な紫眼がもの言いたげにしていた。
サイオンの機密を知らないルキアにとっては、なぜルカが手をこまねいているのか不可解で仕方ないだろう。
スーを奪われ、取り戻すことができない現実。
皇帝ユリウスの王命があればディオクレアも従うしかないが、思想抑制の応用がそれを隔てていた。
王命によって取り戻しても、スーに何が起きるのかわからない。万が一のことがあっては全てが無に帰す。スー自身を人質にとられているに等しい状況だった。
「ユリウス陛下はリン殿に問題がなければ、一緒に参上するようにと……」
「リン殿と……、まだ目を覚まさないようだが」
抑制は天女の守護者にも施されていたのか、王宮でスーを奪われる前にリンも気を失っていた。ルカの私邸で休ませて、傍にはユエンを付けている。医師の診察によれば、容体に不審な面はなくそのうち目覚めるという判断だった。
「殿下、昨日のことはーー」
ルキアの声を遮るように、書斎の扉を叩く者があった。噂をすれば影である。執事のテオドールがリンが目覚めたことを伝えに来たのだ。ルカが即座に部屋へ訪れようとすると、テオドールと共にすでにリンが控えていた。
彼を書斎に迎えながら、ルカは至急王宮へ参上する旨をルキアへ伝えた。
リンはルカの前まで歩み寄ると、するりと頭をさげた。
「ルカ殿下、この度はご迷惑をおかけしました」
相変わらずリンの左眼は装飾で隠されている。
「いいえ。こちらこそスーを守りぬけなかった。あなたは大丈夫なのですか?」
「はい。今回のことについて、僕にはいくつか推測できることがあります。殿下にはお話しておきたいのですが……」
言いながら、リンがちらりとルキアに目を向ける。ルカは人払いをしてすぐにでも話を聞きたかったが、彼にも皇帝からの王命を伝える。
リンは皇帝ユリウスにも語るべきことだと思ったのだろう。すぐに王宮へ参上することを承諾した。
リンと王宮へ参上すると、皇帝ユリウスはすでに最奥のサロンでカウチに腰掛けていた。
以前は皇帝のサロンに招かれて気を張ることはなかったが、最近はたてつづけに緊張を強いられる場になっている。ユリウスの配慮を感じても、明かされる内容への衝撃が上回ってしまうのはどうにもならない。
まるでトラウマを植え付けられたように、ルカは見慣れたサロンの繊細な調度を息苦しく感じた。
リンが深々とユリウスに挨拶の姿勢をとっている。挨拶を交わしてから二人がサロンの大きなソファにかけると、ユリウスがルカをみた。
「それにしても、ずいぶんと悪役に仕立てられたものだな、ルカ」
緊張が顔に出ていたのか、ユリウスは場の空気を和らげるように冗談を言う調子で笑っている。
「おおよその経緯は聞いているが……、おまえはスー王女とは良好な関係を築いていたのではなかったのか?」
ユリウスもディオクレアがサイオンの思想抑制を応用しているとは思い至っていないだろう。ルカが説明のために口を開きかけると、リンが軽く手をあげて制する。
ルカと目が合うとかすかに頷く。この場は任せてほしいと言いたげな眼差しだった。
「ユリウス陛下。今回の件は僕からお話させていただきます。陛下も予感はしておられるのでしょう。だから僕をこちらへ招いたと受け止めていますが」
「否定はしないが、……この予感はあまり認めたくはないな」
「そう悠長なことも言っていられませんね。クラウディア皇家はサイオンの機密を守れなかったのですから」
「ーーでは、サイオンはすでに突き止めているのか」
「昨日の件でようやく確信を得たというのが正解です。そうでなければサイオンがすでに粛清している。秘密を知った者たちがどうなるのか、ユリウス陛下はご存知でしょう」
「……心得ている。サイオンは契約の漏洩を許さない」
皇帝または皇帝となる者だけが知るサイオンとの契約。もし第三者が知った場合はどうなるのか。
ルカの気持ちに不穏な影が横切る。
(言われてみれば、これまで秘匿できたことが奇跡だ)
長い年月の中では、父カリグラのように外部に漏らす者もあっただろう。人間は状況に応じて簡単にうつろう。完璧に生きられるとは限らない。
(ーーまさか……)
ルカの顔色に気づいたのか、リンがこちらを見て浅く笑う。
レオンの婚約披露はルカにとって最悪の事態を招いたまま終幕をむかえた。
翌日になって目にした報道も目を覆いたくなるほど皇太子への糾弾に染まっている。
世論がディオクレアの思惑どおりの反応をしているのは、火を見るより明らかだった。
まるで皇太子の手から王女を保護したかのような成り行きとして語られているのだ。
ルカはすべての予定を取りやめて私邸に引きこもっていた。
じっとしていることも苦痛だったが、今はどうすることが正解なのかがわからない。
やりきれない気持ちと後悔だけが渦巻いている。
「殿下、ユリウス陛下から王宮に参上するように王命が届いております」
ルカの書斎で端末から報告を行っていたルキアが顔をあげる。
悪意に満ちた記事に目を通していたルカが彼を見ると、知的な紫眼がもの言いたげにしていた。
サイオンの機密を知らないルキアにとっては、なぜルカが手をこまねいているのか不可解で仕方ないだろう。
スーを奪われ、取り戻すことができない現実。
皇帝ユリウスの王命があればディオクレアも従うしかないが、思想抑制の応用がそれを隔てていた。
王命によって取り戻しても、スーに何が起きるのかわからない。万が一のことがあっては全てが無に帰す。スー自身を人質にとられているに等しい状況だった。
「ユリウス陛下はリン殿に問題がなければ、一緒に参上するようにと……」
「リン殿と……、まだ目を覚まさないようだが」
抑制は天女の守護者にも施されていたのか、王宮でスーを奪われる前にリンも気を失っていた。ルカの私邸で休ませて、傍にはユエンを付けている。医師の診察によれば、容体に不審な面はなくそのうち目覚めるという判断だった。
「殿下、昨日のことはーー」
ルキアの声を遮るように、書斎の扉を叩く者があった。噂をすれば影である。執事のテオドールがリンが目覚めたことを伝えに来たのだ。ルカが即座に部屋へ訪れようとすると、テオドールと共にすでにリンが控えていた。
彼を書斎に迎えながら、ルカは至急王宮へ参上する旨をルキアへ伝えた。
リンはルカの前まで歩み寄ると、するりと頭をさげた。
「ルカ殿下、この度はご迷惑をおかけしました」
相変わらずリンの左眼は装飾で隠されている。
「いいえ。こちらこそスーを守りぬけなかった。あなたは大丈夫なのですか?」
「はい。今回のことについて、僕にはいくつか推測できることがあります。殿下にはお話しておきたいのですが……」
言いながら、リンがちらりとルキアに目を向ける。ルカは人払いをしてすぐにでも話を聞きたかったが、彼にも皇帝からの王命を伝える。
リンは皇帝ユリウスにも語るべきことだと思ったのだろう。すぐに王宮へ参上することを承諾した。
リンと王宮へ参上すると、皇帝ユリウスはすでに最奥のサロンでカウチに腰掛けていた。
以前は皇帝のサロンに招かれて気を張ることはなかったが、最近はたてつづけに緊張を強いられる場になっている。ユリウスの配慮を感じても、明かされる内容への衝撃が上回ってしまうのはどうにもならない。
まるでトラウマを植え付けられたように、ルカは見慣れたサロンの繊細な調度を息苦しく感じた。
リンが深々とユリウスに挨拶の姿勢をとっている。挨拶を交わしてから二人がサロンの大きなソファにかけると、ユリウスがルカをみた。
「それにしても、ずいぶんと悪役に仕立てられたものだな、ルカ」
緊張が顔に出ていたのか、ユリウスは場の空気を和らげるように冗談を言う調子で笑っている。
「おおよその経緯は聞いているが……、おまえはスー王女とは良好な関係を築いていたのではなかったのか?」
ユリウスもディオクレアがサイオンの思想抑制を応用しているとは思い至っていないだろう。ルカが説明のために口を開きかけると、リンが軽く手をあげて制する。
ルカと目が合うとかすかに頷く。この場は任せてほしいと言いたげな眼差しだった。
「ユリウス陛下。今回の件は僕からお話させていただきます。陛下も予感はしておられるのでしょう。だから僕をこちらへ招いたと受け止めていますが」
「否定はしないが、……この予感はあまり認めたくはないな」
「そう悠長なことも言っていられませんね。クラウディア皇家はサイオンの機密を守れなかったのですから」
「ーーでは、サイオンはすでに突き止めているのか」
「昨日の件でようやく確信を得たというのが正解です。そうでなければサイオンがすでに粛清している。秘密を知った者たちがどうなるのか、ユリウス陛下はご存知でしょう」
「……心得ている。サイオンは契約の漏洩を許さない」
皇帝または皇帝となる者だけが知るサイオンとの契約。もし第三者が知った場合はどうなるのか。
ルカの気持ちに不穏な影が横切る。
(言われてみれば、これまで秘匿できたことが奇跡だ)
長い年月の中では、父カリグラのように外部に漏らす者もあっただろう。人間は状況に応じて簡単にうつろう。完璧に生きられるとは限らない。
(ーーまさか……)
ルカの顔色に気づいたのか、リンがこちらを見て浅く笑う。