118:麗眼布の依存性
文字数 2,592文字
今まで睡眠を貪りたいと思ったときは必ず手元に存在していた。自分とそっくりの女がどういう意味を込めて深刻だと宣告したのかは知らないが、よく眠れない日々を送っているのは事実だった。
眠れないことに伴う心身の不調が、すこしずつスーを蝕み始めている。
今まで自分のことを繊細だと感じたことはなかった。どんな状況でも熟睡ができて、多少の精神的な疲労は緩和できた。
約束されていた、清々しい目覚め。
当たり前だと思っていた習慣がいまは覆されている。
どんな時でも寝付きが良かったのは、
幼い頃からの習慣。
疑うこともなかった他愛無い日常。失ってはじめて、スーは習慣化されていた
(
幼ない頃から刷り込まれて、知らずに身についていた安眠に至る段取り。
(睡眠不足で頭がスッキリしないけど、とにかく考えなきゃ駄目だわ)
現状は監禁に等しい状態である。サイオンの様式を取り入れた室内では自由に動き回れたが、外に出ることはできなかった。出入り口はひとつだけで、窓は一つもない。唯一の扉もかたく施錠されており、スーの力ではどうにもならなかった。
女はスーに端末を与えてくれたが、外部と連絡を取れるような機能はない。
(ルカ様はアレを見てどう思われたのかしら)
女が置いていった端末に残された動画には、スーとそっくりの女が心にもないことを語っていた。ディオクレアの演説とともに、どうやら公の発言として発表されたようだ。
(ルカ様がわたしを疎んでいるなんて感じたことは一度もないわ!)
すぐにでもルカと連絡をとって違うと叫びたかった。ディオクレアが仕組んだ作り物の訴え。これまでの謂れのない噂と繋がり、世間ではあたかもそれが事実であるかのように受け取られているはずだ。
端末から状況を知った当初、スーはどうにか脱出を試みようとあれこれ奮闘したが、すべて徒労に終わった。
女が現れるたびに彼女を責めて、ルカと連絡をとりたいと訴えたが、女は無表情にスーを観察しているだけだった。
スーはごろごろと横になっていた寝台から身を起こして改めて室内を見回すが、これまでの徒労感が蘇るだけでやりきれない気持ちになる。
この部屋から出る方法がない。出られない。絶望的な敗北感がおそってくる。
「あんな演説を流して、もしルカ様に嫌われたらどうしてくれるのよ!」
「帰りたい!」と叫んで、スーはふたたび寝台に投げやりに横になる。ルカと婚約破棄を望んでいるなんて、口が避けても言いたくない。
(ルカ様に疎まれているなんて……)
絶対にない。と思う反面、じわりとスーの心を侵食する影があった。
最近は油断すると、すぐに弱音が出てしまう。よく眠れていないせいかもしれない。
(ルカ様はどんな時もとても優しかった。……でも)
でも、彼の本心はわからない。ただ責任感の強い男性であることはスーにも理解できる。
皇太子としての責務をルカは放棄しない。
(責任感……)
サイオンの王女との結婚も、自分に優しく接してくれたのも。
(わたしがサイオンの王女だったから)
ディオクレアが語った荒唐無稽な作り話。信じるに値しないと思っているのに、まるで浸水しはじめた船が傾くように、スーの心を暗がりへと傾倒させる。
侵食する猜疑心が広がって、不安から目をそらせなくなるのだ。
帝国クラウディアの礎。古代王朝のもたらす恩恵を享受するための生贄。
心を占領していく不安。浸水した海水を掻き出すように何度否定しても、不安は際限なく忍び込んでくる。
ディオクレアの作り話が、もし真実なら。
ルカの優しかった振る舞いの意味が裏返る。そして裏側を認めてしまうと、おどろくほど全てが齟齬もなくおさまってしまうのだ。
(本当はわたしのことが疎ましかったのだとしたら?)
生贄の王女だけにとどまらず、残虐な女帝の複製。もし事実なら誰がそんな人間を愛せるだろうか。
(わたしを大切にするっていうのは、ただの建前で)
スーは去来した考えにぐっと胸を苛まれる。
(やっぱり、ただ生理的に受け付けないだけだった?)
どんなに好意を伝えても、どんなにルカの寝室で晩酌を繰り返しても、進展しない関係。
十代で世継ぎを儲ける帝室の慣例も、ルカと自分の間には効力を発揮しなかった。
(……そうなのかもしれない)
考え出すと止まらなくなる。ルカの優しげな印象が、別の意味を伴ってスーに襲いかかってくる。
(もし本当なら、ルカ様とオシドリ夫婦になりたいなんて、笑い話にもならない)
ディオクレアの語ったことが、ルカと過ごした宝物のような日々を汚していく。
サイオンの王女は帝国の生贄。
その条件の上に築かれたルカとの関係。偽りの優しさ。
(もしかして、ずっとルカ様を困らせていた?)
誰でも生理的な嫌悪は拭えない。いずれ生贄となる王女。そのために複製された人間。
そんな女に言い寄られても、気持ち悪いだけだろう。
どんなに見た目が綺麗でも関係がない。愛してもらえるはずがない。
(ルカ様は、全部知っていた……?)
知っていたのなら、これまでの彼のふるまいに筋が通る。
スーにも抗えないほど、すべてが符合する。
違うと否定するほうが難しい。
(きっと全部知っていた)
認めてしまうと、行き場のない感情が込み上げて溢れ出した。
それは雪崩のようにスーの気持ちを押しつぶしていく。
「……っ」
暗い熱が視界を滲ませ、すぐにぼやけた。
涙腺から溢れ出た熱は、とめどなく頬をつたってシーツを濡らす。
「う、く……」
堪えていた嗚咽が室内に弾ける。
スーは胎児のように体を丸くして、去来した感情にのみ込まれてしまう。
(こんなに大好きなのに)
届かない。すべて間違えていた。帰りたいと望むことが正しいのかもわからない。
(わたしの気持ちは、ずっとルカ様に迷惑だった)
わからない。
何をどんなふうに考えれば、この気持ちが救われるのか。
砂嵐のようなノイズが、美しい記憶を歪ませる。
ルカがどんなふうに自分を呼んでくれたのか、声が思い出せなくなる。
どんなふうに笑いかけてくれたのか、笑顔が思い出せない。
深淵に引きずり込まれるように、ただ心が蝕まれていく。