139:皇太子からの求婚

文字数 2,037文字

 ルカがじっとこちらを見ている気配がしたが、スーは彼の目を見ることができない。

「スー、すこし待ってください」

 ルカが茶鍋(ティーポット)を持ち上げた。

「先にお茶を淹れましょう」

 二つ並んだ(ティーカップ)に、彼がなみなみと紅茶をそそぐ。芳しい香りが立ちのぼり、ゆるやかな渦をつくりながら湯気が舞いあがる。「どうぞ」と差し出された紅茶は、赤みがかった鮮やかな琥珀で、ゆらゆらと表面で光が反射していた。

「ありがとうございます」

 ルカの顔を見ることができないまま、スーは紅茶に口をつける。ほんのりとした甘さが、すこしだけスーの怖気づきそうになる気持ちを奮い立たせてくれた。

「ルカ様、あのーー」

「スーの大切な話とは、私との婚約を白紙に戻したい、という話ですか?」

 びくぅっと心臓が飛び出しそうな勢いで、スーはうろたえる。

「え!? あの、それは……、あっ! もしかしてルカ様の大切なお話というのも、実は婚約破棄のことだったのですか?」

「…………違います」

「違うのですか? では、どうして……」

 スーはあたふたしながら、ようやくルカの情報源に気がつく。

「あっ! ルキア様から聞いたのですね? ルカ様には絶対に話さないでくださいとお願いしていたのに!」

 一人で動揺しまくっていると、じっとスーを見つめているルカの視線に気づいた。

「スー、私はあなたが婚約を白紙に戻したいと思った理由が知りたい」

「え!?」

「なぜ私との婚約を白紙に戻したいと思ったのか教えてください」

「それは! あの! ルカ様には義務感や責任感ではなく、本当に好きになった女性と幸せになってほしいからです!」

 一息に伝えると、ルカは深く息をついた。

「たしかにスーと出会ったばかりの頃は、結婚は皇太子の責務だと考えていました」

「やっぱりそうなのですね」

「でも今は違います。私は自分が愛しいと思った女性を妃にするつもりですし、義務感や責任感で結婚するつもりはありません。今は自分が幸せになるために結婚したいと思っています」

「はい! それはもちろんです! 祝福します!」

 ルカの幸せのためなら全面的に応援すると決めている。前のめりに答えると、ルカが真摯な目をしてスーを見つめた。

「では、私の大切な話も聞いていただけますか?」

「あ、はい!」

 スーはぎゅっと自分の手を組み合わせて覚悟を決める。

「もちろんです!」

 勢いよく返事をしたが、ルカの大切な話には想像がついていた。

 きっと彼には誰か心に決めた女性がいるのだろう。さっきは否定されたが、やはりルカもスーとの婚約を白紙に戻すことを考えているに違いない。

(挫けない! それで良いと決めたもの! それでもわたしはルカ様にお仕えして、生涯ルカ様の幸せのために尽くすわ! 筋肉痛にも耐えてみせる!)

 婚約破棄の衝撃に備えて胸の前でかたく手を組み合わせていると、その手を包むように、そっと温もりが触れる。
 スーの組み合わせた手に、ルカが掌を重ねていた。

 いつのまにか吸い込まれそうなほど美しいアイスブルーの瞳が、目の前に迫っている。
 ルカの囁くような声が聞こえた。

「スー、私と結婚してください」

「――え?」

 しんと、すべての音が消失してしまったように、スーの周りから他の音が失われてしまった気がした。ルカの声だけが聞こえてくる。

「あなたがとても愛しい。だから、これからも私の隣で笑っていてください。スーとの婚約を白紙にもどすことはできません。私は他の誰でもなく、あなたを妃に望みます。結婚してください、スー」

 スーの前でひざまづくようにして、ルカが手を握っている。青い蛍光のような鮮やかな瞳孔。それを抱く淡い虹彩が、スーの影を映していた。

 まっすぐに向けられた端正な双眸には、誠実な光が宿っている。
 美しすぎて、スーは目がそらせない。

 けれど、繰り広げられた告白は、突然夢の舞台に立たされたように現実味に欠けていた。
 あまりにも理想的な台詞を与えられすぎて、スーの心は幽体離脱した魂のようにふわふわと舞い上がってしまう。

「ルカ様、あの、わたし、――さっきから幻聴がひどいのですが!?」

「………幻聴?」

「なぜかルカ様の声が、結婚してくださいと言っているように聞こえてしまうのです!」

「はい、そう言いました」

「わたしのことが愛しいと!」

「はい、スーが愛しいです」

「信じられません!」

「あなたが私の言葉を信じられないのであれば、私はこれから何度でも伝えます」

「夢なら醒めないでほしいです!」

「夢ではありません。スー、私と結婚してください。……あなたを愛しています」

 繰りかえされる熱烈な告白が、すこしずつ、けれど確実にスーの中にある誤解をほどく。
 現実と乖離していた理想が、ゆっくりと近づいて重なっていくのだ。

 義務感であり、責任感でしかないと思っていたルカの思いが、違う絵を描き始めている。
 あり得ないと思っていたルカからの求婚。

 信じてよいのかどうかわからない。
 自分の手を握っているルカの掌のあたたかさだけが、本物だった。
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