第9話 自分が体験するということ

文字数 976文字

「マインドフルネス」を始めて3ヵ月ほど経って、最初のうちは10分だった瞑想が、30分に伸びた。結跏趺坐を目指しているが、身体の固い私はあぐら。背筋を伸ばし、アゴを引き、あぐらをかいていると、腰が痛くなる。そうなったら、椅子に座る。あまりにも苦しかったら、やめる。

 ところで、腰に異和感がある場合、歩きながらの瞑想が有効である。呼吸を意識しながら、7000歩位(約30分)歩いてみる。すると、翌朝目覚め、起きて動き始める際、腰が非常にスッキリしている。「歩く」ことは、簡易な自然治癒にヒトの身体を導くようである。

 もっとも、何か目的がないと、なかなか人間は歩こうとしないようである。私の場合、銭湯の往復がちょうど7000歩だった。「歩くために歩いている」意志の強固な老人を知っているが、彼も元気である。歩くことは、ほんとうに身体に良いのだと思う。

 いずれ詳しく書くと思うが、「長い呼吸」「短い呼吸」を取り入れると、30分では足らなくなる。ましてや「身体の反応を観る呼吸」「身体に心地良い呼吸」の段になれば、1時間は掛かるだろう。まだまだ私は初心者の域を越えていない。だが、淡々と、いつも空気を吸っているのだから、その呼吸を意識する時間を生活の一部に、習慣として続けて行けばいいのだ。

 ブッダは、忍耐こそが最上のものである、というニュアンスのことを言っている。滝に打たれるとか、イバラの道を歩むとかの苦行ではないが、静かに座って自分の呼吸に耳を傾け続けることも、けっこうな修行である。忍耐を要する。といって、自己を苦しめ過ぎてもならない。そこら辺りのバランスも、実際の日常生活を営む上でも相通じる、だいじなスタンスのように思う。

「ただ、自分の呼吸を追う・静かに見つめる」だけで、ずいぶんと気持ちが安らぐことを知った。マインドフルネスの真骨頂は、自分の身体を通じて自分を知ることである。自分が体験するということ。それが、何も呼吸に限らず、生きて行く上で最も肝心なことのように思う。

 言葉、物、道具、この世で手に取れ、眼に見えるものはすべからく便宜上以外のものではない。だが、自分自身で体験し、感じたことは、自己の身体をもって知れる、自分自身以外にあり得ない、個々人の眼に見えぬ貴重な財産となる。
 何も宝石や金貨銀貨、貯金通帳の桁だけが、実に財産ではないのだ。
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