第22話 「感受作用」
文字数 1,763文字
お寺さんの「マインドフルネス」講座。
「身体」に関する呼吸法、4つのステップはもう終了しているのだが、次の項目「感受」になかなか移行しなかった。新しい人が参加する度に、「身体」の復習を兼ねて、また戻っていく。そして新しく来た人は、もう二度と姿を見せなかった。
まず身体があって、そこから様々なことが感受され、その作用として心が生まれ──「 身体→感受→心」この過程に「法」(道、法則性)があり、最終的にその法を学ぶ。この各々に4つのステップの呼吸法があるから、ぜんぶで16の階梯を辿るはずなのだが、なかなか先へ進まない。
正直なところ、これは、いつ終わるのか分からない。この調子で行けば2、3年は掛かる。もしかしたら、本を読んで独学で学んだ方がいいのではないかと思った。
案ずるよりも産むが易し、といっても、「身体」だけで40分の瞑想である。他の3つは加われば、160分。ステップ0を加えれば、トータル3時間を要する。こんなに瞑想ができるのか、はなはだ不安である。無理ではないかと思われる。
住職もほんとうにご高齢だし、大変だと思う。初参加の人の中には、「早く帰りてえな~」とわざとのように大きな独り言を言う人もいる。二時間半も、住職が仏教について話し続けた時だった。誰に強制されてもいないのだから、何もそんなモンクは言わなくていいのではないかと思い、私は、その人を少し軽蔑してしまった。「長くなってすみませんでした」と頭を下げた住職を、えらい人だと思った。
話は変わるが、お寺のお坊さんというのは、ほんとうに仏やら死んだ人の魂やらを信じているのだろうか。今まで、私はあまりお坊さんと接する機会がなかったから、ほとんど考えずに来たのだが…。
まず私の直感的結論を言えば、おそらく死者のために彼らは僧侶という職に就いているわけではないだろう。残された遺族の心の慰安のために、経を読み木魚を叩き、念仏を唱えているように思える。そこに全く異論はないけれど、私は何か虚しさを覚える。
この虚しさは、何によっても埋められないとも感じている。ほんとうに死後の世界があって、死者が三途の川を無事に渡り、極楽に行けるよう、本気で念じているお坊さんがいたとしても…いや、ほんとうにそのようなお坊さんはいらっしゃるのだろうか。
そもそも死について何か言うこと、死に対して生者が何かすること、そのなかに何か虚しさの土台が感じられる。しかし、われわれの生は、どう抗おうと、死をもって終結する。生まれた時から死に向かっている以上、その途中である「今」に虚しさが感じられないわけがない。灰皿の下に、洗濯を干すハンガーに、食卓を立たせる4本の脚元に、死が、虚無が、潜んでいる。
お坊さんという職業は何なのだろう? タイなどでは、生きるために、生きる者のために、日常生活の中に僧侶が確固として足を着け、生きている風景がある。日本では、儀式・儀礼、お盆やら何回忌とか、決まった行事の時にだけ、お坊さんがオートバイに股がって町を走っている印象だ。
それは単なる形だけであり、形のための形として僧侶が仕事をしているのだとしたら…
お墓を維持するのはお金が掛かるから、墓をつくらない・ある墓をなくす家も少なくないと聞く。ゆっくりゆっくり、墓場がほんとうに淋しくなっていく気がする。
生命というのは、何なのだろう? 生まれて、死ぬ。そこには、人智では計り知れない、人間の手の届かない何かがあるように思える。聖域といっては美化が過ぎるが。
生きて、労働すること。それは社会に、この人間社会に貢献することだと思う。だが、この社会とは何なのだろう?
企業のワクに押し込められ、自分を押し殺して働き、老いていく。その身体は、まるで使い捨てられたように息絶え、その最期さえ、形だけのようなお坊さんに、形だけのような念仏が唱えられる。(以前、私の友人がハローワークの求人で、「職業・坊主」を見たことがあるという)
何か、生命が形骸化される感じがする。
私にとってのこの疑問は、なぜ「生命は尊い」と自分が思うのか、ということに通じている。木々も、鳥も、虫も人間も、生きている、みんな尊い生命なんだと、どうして自分は感じるのだろう。
そして、心を込めるとは、どういうことなんだろう。
「身体」に関する呼吸法、4つのステップはもう終了しているのだが、次の項目「感受」になかなか移行しなかった。新しい人が参加する度に、「身体」の復習を兼ねて、また戻っていく。そして新しく来た人は、もう二度と姿を見せなかった。
まず身体があって、そこから様々なことが感受され、その作用として心が生まれ──「 身体→感受→心」この過程に「法」(道、法則性)があり、最終的にその法を学ぶ。この各々に4つのステップの呼吸法があるから、ぜんぶで16の階梯を辿るはずなのだが、なかなか先へ進まない。
正直なところ、これは、いつ終わるのか分からない。この調子で行けば2、3年は掛かる。もしかしたら、本を読んで独学で学んだ方がいいのではないかと思った。
案ずるよりも産むが易し、といっても、「身体」だけで40分の瞑想である。他の3つは加われば、160分。ステップ0を加えれば、トータル3時間を要する。こんなに瞑想ができるのか、はなはだ不安である。無理ではないかと思われる。
住職もほんとうにご高齢だし、大変だと思う。初参加の人の中には、「早く帰りてえな~」とわざとのように大きな独り言を言う人もいる。二時間半も、住職が仏教について話し続けた時だった。誰に強制されてもいないのだから、何もそんなモンクは言わなくていいのではないかと思い、私は、その人を少し軽蔑してしまった。「長くなってすみませんでした」と頭を下げた住職を、えらい人だと思った。
話は変わるが、お寺のお坊さんというのは、ほんとうに仏やら死んだ人の魂やらを信じているのだろうか。今まで、私はあまりお坊さんと接する機会がなかったから、ほとんど考えずに来たのだが…。
まず私の直感的結論を言えば、おそらく死者のために彼らは僧侶という職に就いているわけではないだろう。残された遺族の心の慰安のために、経を読み木魚を叩き、念仏を唱えているように思える。そこに全く異論はないけれど、私は何か虚しさを覚える。
この虚しさは、何によっても埋められないとも感じている。ほんとうに死後の世界があって、死者が三途の川を無事に渡り、極楽に行けるよう、本気で念じているお坊さんがいたとしても…いや、ほんとうにそのようなお坊さんはいらっしゃるのだろうか。
そもそも死について何か言うこと、死に対して生者が何かすること、そのなかに何か虚しさの土台が感じられる。しかし、われわれの生は、どう抗おうと、死をもって終結する。生まれた時から死に向かっている以上、その途中である「今」に虚しさが感じられないわけがない。灰皿の下に、洗濯を干すハンガーに、食卓を立たせる4本の脚元に、死が、虚無が、潜んでいる。
お坊さんという職業は何なのだろう? タイなどでは、生きるために、生きる者のために、日常生活の中に僧侶が確固として足を着け、生きている風景がある。日本では、儀式・儀礼、お盆やら何回忌とか、決まった行事の時にだけ、お坊さんがオートバイに股がって町を走っている印象だ。
それは単なる形だけであり、形のための形として僧侶が仕事をしているのだとしたら…
お墓を維持するのはお金が掛かるから、墓をつくらない・ある墓をなくす家も少なくないと聞く。ゆっくりゆっくり、墓場がほんとうに淋しくなっていく気がする。
生命というのは、何なのだろう? 生まれて、死ぬ。そこには、人智では計り知れない、人間の手の届かない何かがあるように思える。聖域といっては美化が過ぎるが。
生きて、労働すること。それは社会に、この人間社会に貢献することだと思う。だが、この社会とは何なのだろう?
企業のワクに押し込められ、自分を押し殺して働き、老いていく。その身体は、まるで使い捨てられたように息絶え、その最期さえ、形だけのようなお坊さんに、形だけのような念仏が唱えられる。(以前、私の友人がハローワークの求人で、「職業・坊主」を見たことがあるという)
何か、生命が形骸化される感じがする。
私にとってのこの疑問は、なぜ「生命は尊い」と自分が思うのか、ということに通じている。木々も、鳥も、虫も人間も、生きている、みんな尊い生命なんだと、どうして自分は感じるのだろう。
そして、心を込めるとは、どういうことなんだろう。