第33話 荘子とヘーゲルとブッダ

文字数 1,280文字

 どうも「荘子」を読み始めた辺りから、自分の中に変化があったようです。

「生も死も同じである」という荘子は、私のずっと言いたかったことを全て言い尽くしてくれ、さらに自然であること、そのままであることにこそ真理があるのだという、ブッダのいうところの「ダンマ」を指し示していました。しかし荘子は、ヨガをしたり、何か瞑想のようなことをする者を嘲笑するが如くだったのです。

 寓話が多く、読み易い荘子。かれが云わんとすることは、「何も難しいことはない。ただ心を無にして、自然と一体になれ」というような、非常にシンプルなものでした。実際、荘子自身、そうして生きたような印象を受けます。聡明な奥深い、本質を見抜く眼をもっていて、その眼が「無」を観じ、その実在する眼さえも「無」と同化していく。そんな人物に私には見えました。

 翻って、「マインドフルネス」はとても難しい。12のステップなんて、ほんまにできるんかいなという感じです。
 ただ、半・結跏趺坐の恰好で姿勢を正しくして呼吸を見つめていると、それが長い時間であればあるほど、日常生活での姿勢も改善され、身体が軽くなって、堂々と歩ける感じがします。これは、「呼吸による瞑想」を知って実行し始めて、初めて体験したことです。

 一時期、1時間も瞑想すると、何か自分が特別な存在にでもなったような気がして、まわりの人を見下げるに似た態度が、どこか心に表れました。今はそれに気づきましたが、調子に乗っていた時は自戒する意識もなかったです。

「荘子」を知ってから、ブッダへの思いのようなものがぐらついて、ふらふらしていたのは、この連載を読み直す度に自覚したことでした。持ち直そう持ち直そうと、書き直し書き直し、一定せず。
 時間が経って、私の中の荘子も落ち着き、やっとまた戻ってきたという気がします。

「荘子」の訳者、森三樹三郎さんの「医療や科学、政治がどんなに良くなったとしても、根源にある生、病、老、死を処方するのは、ブッダや荘子といった哲学・宗教に、結局のところ依るのではないか」といったニュアンスの言葉は、強く残るものでした。

 今、こりずにヘーゲルの思想を読んでいるのですが、この人がまた難しい。ですが、最初にただ「在るもの」を在るものとして認識し、次に「矛盾」の段階に入り、さらに次に「在るものと、在るものと相対する矛盾とを包括する」段階に入る、という三段階の論法、ヘーゲル哲学の体系のようなものは面白く感じます。そして真理というものを明瞭にしていくという…
 この世界には、どうも、順序・階梯があるようなのです。

 私のマインドフルネスは、現在のところ「呼吸を見つめる」「長い呼吸をする」このふたつで止まっています。最近は、人の少ない奈良公園内の、さらに人のいないような所で、ベンチの上でやっています。たまに鹿が寄って来て、瞑想が中断します。
 ですが、気持ちがいいので、ただじっと30分~1時間ぐらい、ひたすら呼吸を見つめようとしています。
 ただ座っているだけで、何も悪いことはしていないはずですが、不審者になっているような気もします。
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