第37話 「大乗非仏説」

文字数 1,262文字

 すだれが風にたなびくお堂で、住職の話を聞く。
 今日こそ「ヴェーダナー(感受)」の説明かと思いきや、三名の初参加の方がいらっしゃったので、「カーヤ(身体)」の話。それから、仏教的要素を排斥した、臨床学に基づくマインドフルネスのやり方のCDを聞きながら、しばし瞑想。
 その後、また話を聞いた後、「長い呼吸」「短い呼吸」を十分ずつ、という流れ。

 住職の話で印象的だったのは、大乗非仏説。マックス・ミューラーさんというドイツ人の比較言語学者が唱えたとか。「大乗仏教はシャカのほんとうの教えではない」ということを、パーリ仏典、サンスクリット語の仏典を比較して「発見」した学者だったらしい。むろんミューラーさんは仏教徒でもなく、言語を比較研究する中立的な立場であった。
 当時、真言宗の大谷派から派遣された二人の僧侶に、ミューラーさんは「大乗、ましてや浄土など『異端なもの』を学ぶより…」と言ったらしい。

 大航海時代、仏教はヨーロッパ各地にもその経典が訳され、渡航した。日本にも、中国から仏教は伝来したが、どれも「いい加減な」ものだった、というのが住職の意見である。彼は、マインドフルネスを介して、仏教研究がすすみ、「ほんとうの教え」のようなものが「正しく」理解されるのが望ましいとしている。

 聞きながら、私は同感する。彼の、仏教に対するまじめな態度に対して。
 だが、「どれがほんとうでも構わない。人ひとりひとりが、自身の直観、体験から、ほんとうだと思うことを信じて、やっていけば」とも思っている自分もいるのだった。
 ホントウもシンジルも、それを言葉にした途端、それ自体がホントウでなくなり、シンジラレナイような気になるからだ。
「ほんとう」というものは、ひとりの中にあるもので、集団の中にあるものではない。「これがホントウです」とホントウらしい国旗を掲げ、そのもとに集まることに、私は戸惑う。

 何かを信じる心は、人ひとりの中にしかあり得ない。そしてその心は、どうしたところで、たえずうつろう。うつろいを、軽薄なものとして、強固な根を人工的に自分に生やそうとするよりも、弱い、愚鈍な心を包容したいと私は望む。そもそも、形のない心に、強いも弱いもないのだが。

 念仏を唱えて本人が楽になるなら、それに越したことはない。ただ、念仏は人為だなとは思う。無為、何もしないことが望ましい私としては、無理がある。どうしてこのような自分であるのか、わからない。わかる必要もない。ただ、この身体が生かされていることを感じる、生命を感じる時間として、マインドフルネスをする…そんなスタンスになっている。

「あ、呼吸が呼吸している」と気づいた時、生じては滅していく、ひとつひとつの呼吸に、震えた心がある。それが私のマインドフルネスの原点で、それ以外に何か感じたいとは思わない。何もせず、ただ姿勢を正しく座って呼吸をみつめられるようになること、それが私の求めるもので、その「求め」に対してさえ、無頓着でありたい。何も望まないようになることが、私のホントウの望みだ。
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