第21話 「原始仏典」

文字数 1,580文字

 中村元(はじめ)著、ちくま学芸文庫の(上)。
 後半に、ブッダの弟子たちの「声」が多く記されている。その中に、「よく呼吸を整え」「寝ても瞑想、起きても瞑想、歩いて瞑想、食べて瞑想」というような記述があった。確かに、呼吸による瞑想は行なわれていたようである。

 ところで、先日のお寺でのマインドフルネスで、「日本に仏教なんてありまへん。浄土宗は法然教やし、真宗は親鸞教。ナムアミダブツを唱えればいいなんて言ったって、繰り返し同じことを言っていると、脳からドーパミン(?)が出て心地良くなる。解脱なんていうけど、何てことはない、『脳』の問題ですわ」
 あっけらかんと住職が言う。大学で物理学を教えていた教授だけあって、科学的な見解であった。呼吸によって脳が受ける影響も、科学的に立証されているらしい。

 大脳をレーザー手術する場合、「おでこの辺りからぐるりとメスを入れて、ヘルメットのように頭をパカッとして…」と、しばらく脳の話。
 私(かめ)の家人の親戚も、そのようなオペを受け、何やら病が治ったらしい。脳というのは、すごい存在らしい。
 ヒネくれた私は、脳がそんなにエライのか、との疑問を拭い切れない。研究が進んで、足の裏に脳があったりしたら、面白いなあ、などと考えてしまった。
 いや、実際、気持ち・精神・心というのは、どこにあるのだろう。これらも、脳に含まれるのだろうか。
 そもそも、身体、精神…よく、分からないものである。

 人間個人は、様々なものの集合体である、とブッダは云った。
 また、たとえ脳がヒトの最重要部分であるとしても、われわれは自分の脳に触れることはできない。医療業界の特権分野となってしまう。心臓にも、自分の手では触れられぬ。せいぜい呼吸を整え、この「集合体」を落ち着かせ、脳が悩むならそれを静める── 私が自分でできるのは、そのくらいだ。自分の生命の宿った身体なのだから、せめて自分で、できる限りのことをしたい。

 脳を手術することで認知症や精神病が治ったとしても、現実は、きっとお金を沢山持った人に施行されるだけである。そんな未来が好ましいとは、私には思えない。
 誰にでも、自分のできる、自分の健康法のようなものを、ひとりひとりが体得して、一人一人が落ち着いて、それが自然の流れのようになればいいと思う。ヒト、個人個人、ひとりとて同じ人間はいない。窮極として、ひとりひとり、自分なりに生き、自分なりに満足して(他に誰が?)生をまっとうできれば、それで全くいいではないかと思う。

 話が逸れました。
「原始仏典」についての感想。
「ブッダの肉声に触れる」と文庫本の帯にあるが、そんなことはない、と感じてしまった。「大乗仏教に触れる」が近い感じで、ただ、弟子たちの肉声はほんとうのようだ。
 ダイバダッタがやたら悪人のように描かれている場面もあって、これもよく解らない。前世から、その前の、もっとずっと前の前世から、ダイバダッタはブッダに悪行を働いてきたというが、私には前世そのものが、ほんとうには信じられない。
 ブッダという人がいたのは歴史の事実としても、アショーカ王や他の権力者、売人、布教の損得などによって、ブッダに関する物語はずいぶん捩じ曲げられてきた気がする。

 過去は現在によってつくられるから、捏造もできてしまう。古来から遺されてきた言葉を、今の本に追いながら、「あ、これはブッダに近い」と感じられるものを、自分の中に置き留める、そんな読み方で進めている。
 しかし…全く関係のない話だが、「戦争を止めるために原爆を落とした」とアメリカの偉い人が言っているみたいだ。権力を握るというのは、恐ろしいことだと思う。戦争が止めるのために、どうして人を殺さなければならなかったのだろう。為政者たちが、けっして、断じて、戦争などへ突き進まないよう、切に望みたい。
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