第25話 怒りについて

文字数 1,840文字

(コロナ禍の影響で、お寺での講座も休みが続き、このような拙文を書いていました。マインドフルネスと関係ないとも思われますので、興味のない方は読み飛ばして下さい。)

 皇帝ネロの教育係であったセネカも、怒りについて何か書いている。怒りというものは、仏教でも「瞋」として、人間のもつ悪徳の1つに挙げられている。
 怒り。
 これは、ほんとうに制御し難い、操作の難しい感情だった。私はこの怒りに捕われた時の情態を書けば、「自分は正しいのだ」という基盤を元に、怒っている時が多かった。自分は善で、相手は悪なのだというふうに。こんな私に取り上げられる「善」は、ひどい迷惑だったことだろう。

 ところで、本屋に行き、「自己啓発」とか「宗教」のコーナーに立ち止まって何かを探していたりすると、何か恥ずかしく感じる。
 前回書いたアーチャン・チャーさんのタイの本も「マインドフルネスの原点」という帯が巻かれ、「悩みがなくなる生き方」とか「こうすれば平和に生きられる」とか、マニュアル本のような扱いを受けている。

 ブッダは、物の考え方、捉え方、現実に沿った心の持ちようを、ひとりひとりの人間に分かり易いように説いた。それは「対機説法」であって、相手によってブッダの意見は変わるものだから、頑なに論理を一貫し、けっしてブレない、というものではなかったと思える。そんな石頭だったら、多くの人に受け容れられる土台も築けなかっただろう。けっして「万人向けに」、個人個人を十把ひとからげにして、マニュアル化するような方向を、ブッダは持たなかったと思う。そうさせたのは、後年の弟子たちの仕事だったと思う。


「霊魂というものなんか無い。ブッダはそんなものについて一言も言っていない」いつかの講座で、お寺の住職が言っていた。お墓を彼に預ける檀家さん達もいらっしゃる中で、勇気ある発言のように感じられた。
 まったく、2500年前の人のことなど、誰が「ほんとうに」知れよう。その人について残されている膨大な文献から、その時代その時代に生きるひとりひとりが、各々、自分に都合のいい解釈をする── そんな仕方で、仏教は長大な時間をくぐり抜けて来たように思う。その包容力、広量さが、仏教の魅力であるようにも思う。

 アーチャン・チャーの本にしても、ブッダダーサの本にしても、ブッダが「呼吸による瞑想」を好んでいたことは間違いない、と書かれている。
 このマインドフルネスによって、私が感じるのは「自分に立ち戻り、また自分から離れて行く」そんな感覚だ。
「最終的に、人間は自分を世界にかえすのだ」とブッダは云った。この「かえす」という意味が、瞑想をしていると分かる気がする。

 瞑想中、自分の心身について観察していると、ほんとうに細かく、精妙に精密に、心身ができていることが分かる。この微細さ微妙さは、いくら追っても追い切れない。生命は、ひとつひとつ、存在していて、自分の内にあり、同時に外にあり、循環し、宇宙のような存在を感じられる時もある。

「怒り」について話を戻すと、兎にも角にも、その時私は怒りに身を任せてしまった。「他者は自己にあらず」だのに、その他者に私は自分を押し付けた。人間関係、上司にタテついた時だった。
 その怒りまで、私は正当化することはできなかった。どうして怒ってしまったんだろうと、うじうじと、めげた。

 怒りは、尾を引く。怒りっぽい人は、自分でその「尾」が軌道をつくって、まんまと自分がハメられ、自分をその軌道に乗せていくように思う。そう、「癖」になるように。
 怒りのなごりが生暖かいと、私は瞑想なんかどうでもよくなった。そんな日が、2、3日続いた。だが今朝、身体が求めて、自然に瞑想していた。足を組んで、40分。
「自分がどのような情態であるのかに気づくこと。この気づきが大切なのであって、それができれば瞑想なんかしなくてもいいんですよ」との言葉が、アーチャン・チャーさんの本にあったような気もする。

 モンテーニュから、荘子から、雑草から埃から、私は「気づき」を与えられる。いや、気づく自分に気づく、が、正確のようだ。
 ところで、自己啓発というのはどうも胡散臭い。そのまま鵜呑みにしては、洗脳されてしまう。脳など、いちいち洗われなくてもいい。むしろこのままの「脳」と、私がどうつきあっていくかが、よっぽど肝心だ。いや、そのままもこのままもない、今、今の自分を観じよう。八方に散らばる心に似て、またとりとめのない文になっている。
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