第14話 自分は無いということ

文字数 1,319文字

 ブッダの説いたことで、最も好きなのがこの「無自己」とも言える思想である。いや、思想というより、現実であるような気がする。
 形而上のことを、ブッダはほとんど「どうでもよい」と見なしていた。毒矢の譬えは有名である。今にも死にそうな人があり、彼が「私を討った毒矢の使い手の身分は何か。この矢の性質は何か。(話は飛ぶが)宇宙に果てはあるか、ないか。死後の世界は存在するか、しないか」

 そのようなことを聞いているうちに、彼は毒が回って死んでしまうだろう、という話。
 身分がどうの、宇宙がどうの、死後がどうのは、問題ではなかった。肝心であるのは、この毒が回って苦しんでいる人を、どうするかというのがブッダの最大の課題だったのだ。

 また、筏の話も有名である。こちらの岸は危険で、対岸は安全。川を渡らなければならない状況で、ある人が筏を作り、川を渡った。
「この筏は大変役に立った。ありがたいものだ。これを私は背負って行こう」その人は、そう思った。一見、よい心掛けのようだが、ブッダはよく思わない。

「なぜそれを背負う。重荷になるではないか。川を渡れたなら、それでいいではないか。置いて行きなさい。この筏と同じで、私の言葉も、その時、あなたの役に立てばいいのです。よい言葉を聞いたからって、それにこだわってはいけませんよ」みたいなことを言っている。

 絶対的なものなど無いのだから、絶対視しなさるな。それはあなたを苦しめるだけですよ。
 こんな見方をするブッダは、もはや宗教の域を越えている気がする。彼は、人が苦しまないようになればいい。それしか考えていなかったのではないかとさえ思ってしまう。
 そして根性や気合ではなく、具体的な言葉で「苦しみを滅する方法」を説いたわけだ。方法というより、真実というものがあるとしたら、それをただ具現化、論理立てて具体化しただけである。

 ブッダ自身、自分が真実をモノにして、それを説いたのだとは思っていないだろう。まことのことが、説かれた、と考えていただろう。ブッダの中にまことのものがあったのではなく、天空だかどこだか、雲のようにあったもの、ずっとあり続けているもの、いわば普遍のことが、彼は「言葉にされただけです」と言うだろう。

 仏典で、「教えはよく説かれた」という言葉を彼自身の言葉として散見するのは、ブッダ自身には何かを民衆に教えてやるといった思い上がった意識はなく、その「何か」、すでにあり、あり続けているもの、「それが私を介して説かれたに過ぎない」という謙虚な態度があったからのように思われる。
 まったく、自然、時間、繰り返す生命の法則…真実のようなものの前に、どうして傲慢な態度がとれるだろう。

 自己というものは、無い。あると思っているだけである。心臓、血管、その他の臓器、皮膚、骨…この心も同様に、わがものではない。この肉体、心は、あらゆるものの集合体である。わがものであるなら憂鬱にも病気にもならず、思い通りになるだろう。「他」によって成り立っているから、思い通りにならないのだ。
 この、言えば「他力」思想は、法然、その弟子の親鸞…詳しくは知らないが、仏教の根底として地下水脈のように流れているはず、と思う。
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