第27話 死を観じる

文字数 1,345文字

 子豚が、お母さん豚の乳を吸っていた。だが、突然子豚は恐怖におののいたように、お母さん豚から身を離し、逃げるように走り去った。お母さん豚は死んでいた。子豚は、お母さんの形ではなく、心が動いていないことを察し、乳房から離れていったのだ──「荘子」に、このような描写がある。

 ブッダの経典(大念処経)には、瞑想修行のひとつに、「死を見つめる」がある。墓場で、死体が朽ちていくのを、ひたすらに見つめ、観じ続ける、というものだ。おどろおどろしい感もあるが、
〈この身も、このような性質のもの、このようになるもの、このような状態を超えないものである〉
 という「身の随観」の瞑想である。

 墓場というのが、最も瞑想にふさわしい場所である、という見方もあるらしい。すると、近所のお寺さんで行なわれる「マインドフルネス」は、好立地条件になるが、実際に死体が腐乱していく光景など、とてもじゃないが見たくない。現実にも、あり得ない。
 だが、死というものは現実にあり、避けることはできない。愛する者も、憎しむ者も、この身も、そのような死体となる。それを、ただ「観じる」ということである。

「たとえば墓地に捨てられた、死後1日後、あるいは2日後、あるいは3日経った身体を見るように、この身のみに集中します。
 内の身において、身を観つづけて住みます。あるいは、外の身において、身を観つづけて住みます。
 あるいは、内と外の身において、身を観つづけて住みます。
 身において、生起の法を観つづけて住みます。あるいは、身において滅尽の法を観つづけて住みます。あるいは、身において生起と滅尽の法を観つづけて住みます」

「そして、かれに〈身がある〉との念が現前します。それはほかでもない、智と念のためになります。かれは、依存することなく住み、世のいかなるものにも執着することがありません。
 このようにまた、此丘たちよ、此丘は身において身を観じつづけて住むのです」

「次には、たとえばこんな身体が見つかるかもしれません」と「大念処経」は云う、
「鳥に食べられたり、犬に食べられたり、虎に食べられたり、小さな生き物に食べられたりしている身体を見るように、この身のみに集中します」
 そして、「内の身において、身を観つづけて住みます。あるいは、外の身において、身を観つづけて住みます。あるいは、内と外の身において…
 また、身において生起の法を観つづけて…あるいは滅尽の法を観つづけて…あるいは生起と滅尽の法を…」

 というふうに、「大念処経」の中では延々と続く。
 このように観じつづけると、執着したくないという執着も、否応なく、おのずと無くなってしまいそうである。

「荘子」の話に戻ると、荘子は「無為自然」を境地とした。その物語には、不具者も頻繁に登場する。
「どうしてお前はそのような身体になったのかね」との問いに、「知らないよ。このまま両の足が車輪の形になったなら、馬車がいらなくなる。片腕が鶏になったなら、鳴いてみせよう。そんなに悪いものでもないよ」かれらは、きまってそう答える。

 必定のことであるものに、逆らいようもない。ただそれを観じ、それに身をまかせる。この身、かの身、生命には何の差別もない── 荘子の物語は、どこか仏教と通じるものがある。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み