第26話 瞑想についての記述

文字数 1,134文字

 老荘思想の「荘子」にも、その呼吸による瞑想をしていた、と思わせる文面がある。
 無為自然(心にはからいをせず、自然、おのずと然りのままであれ)、万物斉同(この世のありとあるものに一切の差別は、もともと無い)を唱えた人であるから、もし実際に呼吸瞑想をしていたなら、呼吸に対して何の細工もせず、ただ自然、そのままに身体に出入する呼吸を静かに見守っていたことだろう。

「学ぶべきものは自分の内にある」とソクラテスが言ったように、その生命、この世の生きとし生けるものはすべからく、このようにおのずから万物は成り立っているのだ、と自己の身体のうちに自然を体感、認識する荘子の姿と被らないこともない。

「私は考える。ゆえに、私は存在する」と言ったデカルトと対極を為す、ブッダと荘子の「私」への見方。
「自然」というものを崇拝する姿勢は、農耕民族に多く現れるといわれる。さもありなん、自然に対して人間が無力であることを、農耕者はいやというほど知っている。しかし、どんな民族であれ自然には無力なのだ。故に、自然ほど力強くあるものはない。そして自然は、自分が自然であることを意識しない…

 呼吸が、身体が行なう、無意識の自然の行為であるとするならば、何のはからいもない、われわれを生かそうとする意思も持たないものによって、われわれは生かされていることになる。
 自然は、生命を生かしも殺しもするが、かれ自身は、生かそうとも殺そうともしていない。
 この自然の流れに、抗えるものはない。ならば、その流れをそのままにしておこうではないか── こういった考え方が私には心地良い。

 全く、モンテーニュも同じようなことを言っていた。しかし、中国の隠者であった荘子を、中世のフランスの思想家が知っていたとは考えにくい。(「エセー」にも、どんな仕方でか分からないが、モンテーニュが瞑想する記述があるが)また、ブッダの思想が老荘に影響を与えたとも考えにくい。

 ただ、私が面白いと感じるのは、25世紀前から今の今まで、「呼吸」というものを意識する人たちがいたということだ。かえすがえすも、この「呼吸」に気づき、意識を遣ったブッダ…それ以前から瞑想はあったにしても、呼吸について形態化、論理化し、言葉におさめたということがすごい。

 自分の意思などに関わりなく、あらゆる生命が生まれ、死んでいく。このことが、今も絶え間なく自分の鼻先、のど、肺などを、出たり入ったり、行き来を続けていることを思う。
 荘子の記述には、「かかとにまで呼吸が通って行く」とある。
 私はおへそまでを意識していたが、「かかと」を意識して呼吸をしたら、ホントにかかとまで息が入ったような気になった。
 意識というのは、ほんとうに大事だと再認識した次第。
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