第24話 タイのお坊さんの本

文字数 1,393文字

 アーチャン・チャーという人の本。
 いわゆる教義的な・自己啓発的な本。
「こうすればよろしい」という本が、私は苦手だった。こうすればイイことがあります、パラダイスが待ってます! なんて、嘘だと思う。ところが、いわゆる自己啓発というジャンル、本屋に行けば「哲学・宗教」に近い所に置かれ、いかにも「幸福になれる仕方を教えます」といったような、何かマニュアル本のような胡散臭さを感じる。
 宗教的なものには、自分の眼をつむらせる手が伸びてくる。自分の眼を塞いでまで、私は幸せになりたくないし、救われたくもない。

 このチャーさんの「手放す生き方」(文庫本)を買う時、ためらった。ドストエフスキーや大江健三郎を買う時は、「ヨシ、読んでやるぞ。かかってこい」的な主体性、難しくても、難しいからこそ自分で考えて解釈ができる「自由」がある。しかし、マニュアル本的なものはそれがない。著者の言う通りに、従順に従おうとするだけで、自分がどこか置いてけぼりになる。
 それでも、この生き方入門のような本を買ってしまったのは、長い文章を追うのに疲れ、平易な、読み易い本を求めたからだった。タイという国への憧れと、瞑想に関することが書かれていることもあって、たまにはこういうのもいいだろう、と、要するに何となくシンプルな文字を求めて買ってしまった。

 この本にも、瞑想の重要性は説かれている。しかも、かなり大らかに。つまり、「瞑想の時間の長短が大事なのではなく、自分に対する気づきを常に備えていることが大切なんです」というふうに。
 このチャーさんという人は、タイでは森林派と呼ばれているらしい。田舎の森に僧院を建て、ひとりひとりが静かに瞑想できるような場を授けた。そこには世界各国から人が訪れ、一ヵ月か何週間か、そういう生活をするらしい。

 25世紀前の人の言い伝えは、それを伝承する人たちによって変化した。膨大な仏典は、それを読む人が自分に都合の良い「ブッダの言葉」を取り上げる自由を駆使しているように思える。このチャーさんは現代の人であり、その言葉は訳者経由にしろ、そのままチャーさんの言葉だろうという、大きな曲解を経ていない安心感も多少ある。

 解釈…物事、事象の解釈。私は、自分に都合の良いように、ものを見て、私の中に取り入れてしまう。それが被害妄想であっても、いろんな解釈ができるのに、被害妄想を「選んで」自分に取り入れている以上、そうなのだ。
 この自分は、移ろい易い気分屋だ。こんな私が、何を絶対化できるというのか。
 ただただ、「観じる」こと。この世の物象を見、接し、感じる自分を観じること。
 見えるもの、感じるもの、それをそのまま見、感じるのではなく、それを見、感じる自分を、そのまま見、観じること。

 こんな見方をするようになったのも、瞑想のおかげ、と思いたければ思えばいい、と自分に言う。ただ私は…私というものがあるとしたら…流れているだけ。
 1ヵ所に留まっても、留まらない。留まらなくても、留まっている。
 どこに私がいようが、私は誰でもない。
 風、火、地、水、それらが「私」そのものである。そんなことも、少し分かった気がする。チャーさんの本のおかげか、今までのブッダの本のおかげか、分からないけれども。

(コロナ禍のため、しばらくお寺での講座がお休みだったので、その間、こんな文を書いていました。すみません)
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