第3話 ところで、ブッダについて。

文字数 1,180文字

 私が最も好きなマンガに、手塚治虫の「ブッダ」がある。その何巻かの1ページに、「あの人のことを思うと、何か心が落ち着いて、大らかな気持ちになるんだよなあ」といったニュアンスを言う1コマがある。
 これは、私のブッダへのイメージと一致するので、この場面が妙に印象に残っているのだ。
 私にとって、仏教だろうがキリスト教だろうが、何でもよく、どうでもいいことだ。ただ、人間としてのブッダが好きなだけなのだ。

 ブッダの逸話に、「布切れ」の話がある。弟子の中には、出来の悪い人もいた。その人は、何ヵ月経っても、お経か何かの言葉の一行も覚えることができなかった。兄弟で出家していたのだが、信頼していた兄からも呆れられ、「もうお前は家に帰れ」と言われる始末であった。
 その人は、しょんぼりしながら外にいた。ブッダが助けてくれないかな、と多少の期待をしながら。

 するとブッダが来て、こう言った。「何も覚えようとしなくてもよいのだよ」と。
 そして一枚の布切れを渡し、これに気をつけていなさい、と言ったという。この布切れが、靴磨きにでも使うのか、掃除に使うのか、仏典を読んでも分からない。ただ、この布切れでする作業に集中専念しなさい、という意味であったという。

 出来の悪かった人は、その布切れで一心に何かの作業を続けるうちに、皆から認められるようになった、というようなお話である。
 私はこの話を読んだ時、泣けてきた。この出来の悪い人にとって、何も覚えられない自分にとって、「何も覚えなくてもよいのだよ」という言葉は、どれほどの慰めになったろう!

 西洋人、アジア人がブッダについての本を多く著しているが、そこに共通して言えるのは「寛容」ということだった。
 これはほんとうに、人に対して大切な気持ちであると思う。人に寛容にあたれば、自分もイライラしない。自分がイライラしなければ、人に対しても寛容でいられる。そんな好ましい循環がもたらされると思う。

 ブッダの言っていることは、単純であることが多い。だが、それを現実に自分が実践する段になると、難しくなる。頭で分かっていても…というやつである。その場合、ブッダはより細微に自己を見つめる作業をした。何が自分を不満にさせるのか。何がどうして自分はこのような感じになるのか…その1つ1つを論理的に解明していく、いわば心理学者・精神科医のような人であった。

 それは「教え」として、仏教の形態をもって今日に残っているわけだが、ブッダにとって宗教はどうでもいいことであったに違いない。
 実際、彼は自分はただ物の道理を説いただけで、指導者ではない、と言っている。自分はただ、その道理を話しただけなのだ、と。
 そんな人間ブッダが、私は嫌いになれない。そしてイイことを、よく言っていると思う。私にとっての問題は、それを自分に生かせるか、ということである。
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