第2話 ただ「観る」ということ

文字数 1,463文字

 マインドフルネスは、自分の「入る息」「出る息」を観察する瞑想であることが基本です。
 その際、意識する対象が4つあります。
 1)カーヤ(kaya:身体)
 2)ヴェーダナー(vedana:感受)
 3)チッタ(citta:心)
 4)ダンマ(dhamma:法)
 瞑想をしていると、実に様々な考えが頭に浮かんできます。仕事のこと、家事のこと、あれをしなくちゃ、これをしなくちゃ、今までのこと、これからのこと…本当に頭は忙しく立ち働いています。
 ですが、そのような想念・思考は、あくまでも頭やら胸やらが作り出す物事の1つ1つに過ぎません。

 ブッダは、いわば思考というものも、眼・鼻・口・耳と同様にある、「身体の1器官」としていました。
 眼から入る色かたちによって、人間は好きとか嫌いとか「判断」をします。鼻から入る匂いによって、口から入る食べ物によって、耳から入る音によって、嫌悪・好感が生じます。これは、2)の感受作用であるということです。
 この「感受」によって、人間は「自分が生きている」と意識します。

 眼・鼻・口…と同様に、「頭」に浮かぶ諸々の事柄を、われわれは感受します。感受することで、心というものが生まれます。心は、それ自体単独で在ることはできません。必ず何か対象があって、対象に依って生じています。だからうつろいやすく、あちこちに飛び交い、落ち着かず、人間を混乱に陥れても無理からぬ存在です。

「心に操られるな。心の主たれ」とブッダは言いました。そのためにも、呼吸を意識する瞑想は有効です。
 瞑想中に頭に浮かぶ様々な思いは、呼吸を観察し、集中しようとする自分を妨げます。ですが、浮かんだ物事をムリに消すことはやめて下さい、とブッダダーサは言っています。「ああ、こんな考えが浮かんでいる」というだけで、放っておいて下さい、と。ただそれだけのことに過ぎないのですから、放っておきましょう。
 何か考えに捕われても、ああ、捕われた、心が動いた、それを自分は観ている…そうしてゆっくり、また呼吸に意識を戻していく、あるいは観ながら呼吸を意識する、というふうに。

 身体があり、感受があり、心があり、法がある。この4つは、実のところ、今に始まったことではなく、今まで生きて来たひとりひとりの個人、自己の内に、すでにあり続けてきたものです。そのことに「気づく」ことが、この瞑想において最も大切なことと言えましょう。

 余談ですが、「輪廻転生」という考え方は、仏教以前からインドにありました。ブッダによれば、生きるということはドゥッカ(苦しみ、無常)です。しかし、今ある自分の生命を、いえば「高めていく」…そのツールとしてブッダ自身、この瞑想を行なっていたようでした。
 その「高み」に行けば、もう次の生は無い。輪廻のドゥッカは終わる、と。
 私としては、あの現実主義のブッダが、死後や輪廻について、はたして言及したのだろうかという疑問があります。古代インドからの考えを踏襲して、あるいは弟子たちが後世の人達の修行の目的として、そういった言葉が残されているのかもしれません。

 マインドフルネスでは、その「高み」を自分の内に目指していきましょう、ということです。しかし、最終的な到達点のようなところは、目的とか願望とか、そういったものを持たない、つまり執着を自己の内に持たない、「ものそのものがただあるだけである」と観じるところにある、と言っていいと思います。
 それはニルヴァーナ(涅槃)といわれるものですが、これについては、おいおい書いていきます。
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