第8話 ブッダの心

文字数 1,358文字

 おそらくこれは仏教の心とも言えると思うが、「慈悲」というもの。これが根本にあるように思われる。
 心は、自己のみならず他のものの存在があって初めて生ずるものであるから、自然必然、他者を慈しむ心、大切にする心を、己の中に育む、ということになる。憎しみや怨みを持つのも心である。
 反対に、愛しむ心、思いやる心もそこから生じる。憎悪は、憎悪によって鎮められない。怒りや怨恨の心を育てるのではなく、それを鎮めて、慈しむ心を育むこと。それがブッダの心であったように思われる。

 だが、なかなかこれは容易なことではない。仕事先などでイヤな人間とあたってしまった時など、私はしょっちゅう相手に怒りを覚え、鬱屈し、相手をほとんど憎悪に等しい目で見てしまう。そんな時、とてもじゃないが慈悲の心など持てやしない。

 ばかな私でも、いかにその相手に捕われた自分の心を制するか、が、この時のテーマであることは分かっている。分かっているのなら、あとは実行行動あるのみである。相手に抱いた悪い感情を、引きずらないこと。自分が引きずられないこと。それを相手に向けるのではなく、自分自身の心として、自分に向かって何かすること。私にとって、それが「呼吸法」なのだった。

 イヤな思いを抱いている時、私は自分の呼吸が荒くなっていることに気づかない。心がざわつき、「辞めてやろうじゃないか、こんな仕事」などという感情に捕われるからだ。それが顕著な日は、仕事が終わっても切り替えができず、家の中でもモヤモヤした鬱憤を同伴することになる。
 そんな時、よく銭湯に行ったのである。そしてぬるい炭酸風呂に浸かりながら、「長い呼吸」を意識してやってみた。

 息を吸う時、息という生命が生じ、息を吐く時、息という生命が出て行く。これが私にとっての「今」なのだと思う。鼻からの出入、へそをつたい、ひとつひとつの息の生滅を感じてみる。ぬるま湯で身体も飽和していき、だんだんと気持ちも落ち着いてくる。身体を洗い、労って、我が身を大事にしたいと思う。この身あっての生命ではないか。心も、身のひとつではないか。まずは、我が身を、と。

 そうして歩いて家に帰るまでも、「長い呼吸」を意識して歩いた。「ただいま」「おかえり」の頃には、イラ立ちもだいぶ、当初と比べて薄れていた。もちろん、まだ疼いている。完全に「イヤな思い」を消し去ったわけではない。それでも、80歳を越えてなお淡々と我が道を行くように仕事をしたりしている、近所の寺の住職の姿などを思い浮かべる。
「アセラズ・クニセズ・シズカニ・マッスグニ・ジブンの道ヲイケ」
 彼の座右の銘(?)の、そんな言葉も身に沁みる。

 私は私を律することが肝心なのである。生きる目標があるとしたら、苦楽や刹那の嫌悪好感に囚われず、自分自身をよく整え、今自分が生きていることに満足も不満も覚えず、この生命を慈しむことではないか。そんなところに立ち返る。

 心は、他者に向かっては必ず無理が生じる。他者は、どうにもできないからだ。この心は、我が身の一部分である。我が身は、呼吸によって生かされている。この呼吸をよく見つめてみる。それが私の全てのはじまりなのだ。心よ、あまり暴れなさるな。ありのままを見つめながら、私は、おまえを制するぞよ。そんな思いを念じながら。
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