第45話 灰谷は潜入後に混沌と再び見える

文字数 2,977文字

 童士が赤煉瓦倉庫の正面から突入し、ハイドラと名乗り合いの大音声を轟かせている頃…彩藍は密やかに北側換気窓からの潜入を試みていた。

「う〜ん、こっちの窓は施錠しとるし…そっちの窓から入ると目立ってしまうもんなぁ…」

 ウロウロと赤煉瓦倉庫の屋根の上を偵察しつつも、潜入場所を決めかねていた彩藍だったが…意を決したように独り言ちる。

「やっぱりこの窓しかないか、仕方(しゃあ)ない…」

 彩藍はゴソゴソと懐に手を入れ、小さな噴霧器を取り出すと窓硝子の内側施錠部分に内容物を噴射した。
 すかさず狐火を呼び出すと、窓硝子に押し付けるように停滞させる。
 充分に熱せられた窓硝子へ、彩藍は続いて真言(マントラ)を唱えながら右手を押し付ける。
 白い霜のような気体が、彩藍の右手から発したかと思うや否や…窓硝子が罅割れ、液体を噴霧した部分が粉々になって霧散した。
 粉状に変化した硝子の組織は、そのまま風に吹かれて音も立てずに消滅して行った。
 急加熱からの急冷却で窓を割る、空き巣盗人の技術を妖術で悪用した…彩藍の侵入方法である。

「ここから手ぇを突っ込んで…と、はい!開きました〜」

 窓硝子にポッカリと空いた穴に手を突っ込み、内側の錠を解錠した彩藍は換気窓を開口させる。
 そのまま滑り込むように、換気窓からの侵入を果たした彩藍は周囲に眼を配り闇へ自身を同化させるように身を隠す。

「え〜っと…ここは倉庫の目録置き場なんやろかいな?
何ぞええモンでも、ポロっと落ちてないかなぁ?」

 確かに彩藍の言う通り、忍び込んだ場所は赤煉瓦倉庫に設置された積荷の目録を検査するような小部屋であった。
 古ぼけた机に座面の硬そうな木造りの椅子、それに作り付けの書架には誇りを被ったような雑誌の類が…読み捨てられ立て掛けられているだけ。
 彩藍は机の引き出しに目ぼしい成果を見出せず、書架に並べられた雑誌を検分して行く。

「おっ!『新青年』が創刊号から揃ってるやん、これは好事家に(たこ)うで売れますよぉ。
取り敢えず…創刊号だけは預かっとこうかな」

 何やら書架の中から稀覯本を見出した彩藍は、上着の左衣嚢(ポケット)に雑誌を収める。
 どのような場所からでも値打ち物を見つけて拾う、小銭を稼ぐための涙ぐましい努力を積み重ねる彩藍が小部屋を出た瞬間…背中に氷の塊を滑らせたような悪寒が走った。

「うぉっとぉっ!」

 扉を開いたまま小部屋の中に飛び退く彩藍、その身体は本来であれば小部屋の外へ繋がった廊下へと出ていた筈だった。
 しかし彩藍の本能的な危機察知能力は、彩藍の意思とは無関係に…彩藍を小部屋の中に押し返した。
 その刹那、彩藍の視界の先…廊下の空間を切り裂くように黒い影が奔った。
 細長い漆黒の蛇のようでもあり、翼の生えた黒鳥のようにも見える姿の不定形の何かであった。

「なんや…また…不細工(ぶっさいく)な化け物が出て来よったなぁ。
この薄ら汚さとエグい悪臭は、這い寄る混沌(ナイアルラトホテップ)のお友達関係かいな?」

 影色の浮遊する怪物は目標物を見失っていたのであろう、彩藍の悪辣な呟きが聞こえたようにゆっくりと振り返った。
 廊下の突き当たりで頭と思しき器官を彩藍の方へと向ける、一枚羽の空飛ぶ蛇蝙蝠の頭部には…眼や口はおろか、呼吸器官の孔すら開いていない。
 全身が黒い皮革に巻きつけられたような質感の外皮に、一枚しかない翼は蝙蝠のように薄い皮膜で出来ている。
 細長い体躯には蠕虫のように体節があり、蠢く度に脈動し体節部より透けて見える体内は…深く濃い紅色を見せている。

「おほっ、奴さん人の()()()()()()()()んかぁ?
メッチャ怒っとりますやん…へへっ、手土産に一匹だけでも狩り取っときましょか」

 言うなり彩藍は黒烏丸を鞘走らせて、青眼の位置に構える。
 成る程、彩藍の言葉通りに漆黒の蛇蝙蝠はユラユラと身体を揺らしながら…威嚇めいた仕草で彩藍を存在しない眼で睨め付けているかのようだ。

「さぁ寄っといで、腐った臭いの怪物ちゃん。
僕の包丁で(なます)に切り刻んであげるよってにな!」

 彩藍の挑発的な態度に、闇の蛇蝙蝠は無音で空気を切り刻みながら彩藍の足元に殺到する。

「ヒョッ!
中々の速度(スピード)で突っ込んでくるやんか、でも…それじゃあ遅過ぎるんじゃっ!!」

 うねるように彩藍の左脚を狙った蛇蝙蝠の初撃を、彩藍は右側にクルリと旋回して躱す。
 身体を半回転させながら彩藍は、右手に握り締めた黒烏丸の切先を蛇蝙蝠の胴体中央部に位置する、一枚だけの翼へと突き立てる。

「…………ッ!!」

 胴体に一枚しか付いていない翼を、すり抜け様に斬り落とされた蛇蝙蝠は、無様にも廊下の床面を滑り転がる。
 自身の速度を制御できず、醜態を晒してしまった形の蛇蝙蝠が…怒りのドス黒い気を立ち昇らせて彩藍に向き直る。

「そんな顔で睨み付けても、君には目ぇも口も付いとらんのやから…あんまり意味ないと思うよ。
それに、達人級の相手が刃物を持っとるのに…考えなしに突っ込んで来た自分が悪いんやろ?
完全な自業自得やん」

 敵の怒りを読み取り、畳み掛けるように挑発の言葉を重ねる彩藍。
 その飄々とした態度に、怒りの燃料を投下された蛇蝙蝠は…頭から湯気を出さんばかりの雰囲気を醸し出しながら彩藍と対峙している。
 次の瞬間、蛇蝙蝠はフワリと浮き上がり彩藍へと次撃を放った。

「何やねん!
アンタ羽が無くても飛べるんかいなっ!
お洒落にパタパタ羽ばたいとる場合やないでっ!」

 (すんで)のところで蛇蝙蝠の攻撃を躱した彩藍が、振り返りながら苦情を述べる。
 小首を傾げるような仕草で彩藍を伺う蛇蝙蝠の姿は、彩藍を嘲笑っているかのようだ。

「この餓鬼っ!
人をおちょくりやがって!
舐めた真似をしくさっとったら、流石の僕も承知せぇへんぞっ!」

 彩藍の怒りの台詞にも、蛇蝙蝠は尻尾を振りながら笑っているような態度に見える。
 苛立ちの限界に達した彩藍は、黒烏丸を強く握り蛇蝙蝠へと斬り掛かる。

「僕を舐めてるヤツには、体で覚えて貰わなアカンなぁ!
ちょっと痛い目にでも()うてかっ!
覚えた頃に死んでしもとったらご愛嬌やでっ!」

 黒烏丸の切先が閃き、蛇蝙蝠の頭部と胴体の繋ぎ目部分を深く切り裂く。

「……………ッ!」

 声なき声を上げて、蛇蝙蝠の頭部がゴトリと廊下に落ちる。
 頭部と泣き別れた胴体も、廊下の上で身悶えしながら体液を撒き散らして廊下を汚して行く。
 頭部と胴体部分の痙攣が収まった直後、黒い靄のような気体を噴出しながら…蛇蝙蝠の姿と体液はその場から消え去った。

「コイツ等は実体とかないんやろか?」

 何の痕跡も残さずに綺麗さっぱり消え去った蛇蝙蝠の姿に、彩藍はポツリと呟いて立ち尽くす。

「流石は灰谷彩藍さん…ですね。
私の使役獣である『忌まわしき狩人』を、いとも簡単に仕留めてみせるとは…。
あぁ、コレの身体ならご心配には及びませんよ。
今頃はカダスの地で、同輩共の餌となっているでしょうから」

 彩藍の背後で気配の欠片も見せずに声を掛ける男に、彩藍はその場でニヤリと笑いながら振り返った。

「おぉ、先刻(さっき)ぶりやん?
前に僕から受けた傷は、もう完治したんかいな?
もし…また僕に斬られに来たんですやとしたら、アンタはよっぽどの好き者(マゾヒスト)やなぁ。
ねぇ…這い寄る混沌(ナイアルラトホテップ)さん?」

 旧友に語り掛けるような言葉を発して、振り返った彩藍の視線の先には…湊川隧道河川にて激闘を繰り広げた相手である浅黒い肌の黒ずくめの男(ナイアルラトホテップ)が立っていた。
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