序ノ壱 厳寒の帝都にて

文字数 3,012文字

 大正十五年十二月二十四日未明、前日の早朝より降り続いた雨も夜半過ぎには今冬最初の西比利亜(シベリア)寒気団の到来に伴い、みぞれ混じりの降雪に取って代わられようとしていた。

 かねてより病床に伏せっておられた今上(きんじょう)天皇の命脈もいよいよ尽き、お隠れになるのも時間の問題かと、宮中省の官吏達が囁きを交わし合い始める。
 幼少のみぎりより大病を幾度となく患い、その度毎に陽ノ本(ひのもと)国の科学技術の粋を集めた最新型の機甲に尊き御身を置き換えられた血肉は、すでに三割三分三厘の部位が機甲化されていた。
 今回の機甲化治療を阻むのは、帝国憲法の人民区分法に明記されている『機甲化部位ガ肉体ノ三分ノ一ヲ超過シタル者ハ、人間デハナク機人トシテ戸籍人別帳ヲ改変スルニ能ウ』との条文である。
 現行法の条文に抵触することを恐れた人民院・機族院より選出された、時の内閣によりこれ以上の機甲化の適用が即時停止されていたからだ。
 戸籍人別帳に存在していない現人神である陛下であれば、法律の規定に従う必要がないのではないか。
 また陛下を助命するために必要な措置を講じないのは、不敬に当たるのではないかとの世論は一定の数量で存在していた。
 しかしながら人の世に、君臨すべき陛下が、機人と法的に選別されてしまった御身体で統治を行うのであれば、陛下は人の姿を持った神ではなく現機人神となってしまうのではないか。
 との根強い人間至上主義の声を抑え切れず、今日のこの局面を迎えてしまったのである。

 翌朝、快晴となった帝都は昨夜の降雪を凍てつかせ、都市そのものを氷と化すような寒気が居座った。
 そのおかげで全ての交通機関および、全ての帝都民の生活を大混乱に陥れる予感に満ちていた。

 その混乱の最中、鬱屈と悲哀の纏わりついた宮中省の門扉を開かせんとするモノが突如として顕現した。
 前述の帝国憲法、人民区分法への記載をも忌避された陽ノ本国における最も旧き一族、被差別遺棄民と見做されし妖人族の王を自称する、山本五郎左衛門(さんもとごろうざえもん)と名乗る人物である。
 山本五郎左衛門の右手には鈍色に光る金属製のアタッシュケース、左手には紫紺の風呂敷包みが握られていた。

「陛下の御病状の恢復にあたり、妖化一族より提案いたしたき儀があり参上仕った。
 宮中省の方々よ、即時の開門を願いたい。
 ならびに内閣総理大臣の、若槻禮次郎閣下にもお目通りをお願い致す」

 外見上の年齢は三十五歳から四十五歳程度か、見目と比べればいささか重々しくも深みのあるよく通る声がする。
 痩身長躯と見受けられる身体を仕立ての良い英吉利(イギリス)風の細身背広で覆い隠し、磨き立てられた革靴には雪または氷の類はおろか水滴の一粒も付着してはいない。
 革靴と同様に雨染み一つないソフト帽を目深に被った顔には、弥勒菩薩の如き微笑(アルカイックスマイル)さえ浮かべている。
 その両の眼は眼球が元より存在していない底無しの陥穽なのか、それとも眼球自体がこのような色合いであるか定かではないが、深夜の暗闇よりも濃く、吸い込まれそうな漆黒一色に染まっていた。

 突然もたらされた異形の賓客に応対した宮内省の当直官吏は、従来通りの規則に即した身体・所持品改めを行おうとした。
 しかしながら山本五郎左衛門が頑なに両腕に握り締めた所持品の検閲を拒絶したため、検閲担当の官吏は得体の知れない妖魅との接触をこれ以上持ちたくないと拒絶の意を示した。
 山本五郎左衛門を『特別貴賓室(VIPルーム)』と銘打たれた招かれざる来客を軟禁するための取調室へと誘い、上級官吏を通じて宮中省大臣である市木機徳郎の出座を願い出たのである。

 機族院出身の機人である市木機徳郎は早朝からの宮中省よりの出頭依頼に、すわ陛下の御身に大事があったのではと恐れながら出仕したのだが、官吏からの聴取した報告内容の奇妙さ故に、当初とは違った意味で肝を冷やすのであった。
 山本五郎左衛門と市木機徳郎との面談で曰く、下記の如き提案と要望が山本五郎左衛門より示された。

 一、陛下の重篤な病状を鑑み、妖化一族の伝説の秘宝である人魚の肉を献上し、陛下に食して頂く。

 一、人魚の肉の効能は不老不死不病であり、陛下の身体的苦境を劇的に改善することが可能な、究極的かつ最良の手段であること。

 一、人魚の肉の親和性は、陛下の人間である部分にのみ影響力を行使し、機甲化部位にはその効果を及ぼさない。

 一、人魚の肉を食することで、陛下の人間としての肉体の半分が妖人化されることとなり、陛下ご自身の現世での肉体は三分の一が人間、三分の一が機人、そして残りの三分の一が妖人と置き換えられることとなる。

 一、妖人族が最上の至宝を陛下に奉納するにあたり、交換条件として『人民区分法へ妖人族の存在を表記し、陽ノ本の帝国臣民として戸籍人別帳に登録させること』ならびに『妖人族に対し被選挙権を含む参政権を付与し帝国議会に妖化院を成立させ、帝国議会を人民院・機族院・妖化院の三院制とすること』この二点が山本五郎左衛門の、提案と要求の骨子であった。

 市木機徳郎は宮中省大臣としての席を得てはいるのだが、実際には陛下の機甲化の管理・運用・監視役が主な職務であり、政治的な実権についてはついぞ持ち合わせてはいなかった。
 山本五郎左衛門の提示した内容についての最終判断も、一時棚上げせざるを得なかった。
 内閣の一員としてのせめてもの役割としては、人民院・機族院の元老への情報伝達と、内閣総理大臣の若槻禮次郎および内閣副総理大臣と外務大臣を兼務する機族院の盟友である幣原機重郎に対し、臨時の閣議開催を依頼するのみであった。

 今般の大雪による混乱はあったものの、陛下の大事に備え全ての閣僚が、年末とは言え己が選挙区に帰郷せず帝都に滞在していたことが幸いとなり、十二月二十四日の午前中には緊急の閣議は執り行われる運びとなった。

 病身の陛下を救わんとする思いは全閣僚に等しくあったものの、やはり議論は紛糾した。

「被差別棄民である妖人族の助力を請うのか?」

「妖人族を帝国国民として登録し、剰え被選挙権までを与えてしまって良いのか?」

 以上の二点が喉に刺さった魚の小骨のように、不快な違和感として存在を際立たせた。

 閣議での意見は文字通り二分されてしまったのだが、今閣議において内閣総理大臣である若槻禮次郎と副総理大臣兼外務大臣の幣原機重郎のみは、議論に参加することなくその眼を口唇を意志の力を以って閉ざしていたのである。

「刻が移ろう、その刻は我々の所有物ではなく、今上陛下の物である」

 若槻禮次郎がこの日初めて発言した時刻は、十二月二十四日の午後九時過ぎであった。

「この場にて、自身が所属する各院の利己主義的な見解しか述べられないのであれば、その者個人への民衆の評価は、陛下に対する不敬…いや刃を向けた逆賊とも受け取られかねない裏切りであろうな」

 幣原機重郎もまた重く閉ざした口をようやく開き、本日の閣議における議論の本質を全閣僚に再認識させた。

 内閣の責任者ともいえる両名の発言にて、議論の方向性は定まった。
 残るは人魚の肉の真贋と効能についてであったが、帝国立宮内省病院よりの急報が入る。

「陛下ノ意識混濁シ、病状重篤デアラセラレル」

 その一報を受けたことで、検査・審査を経ず人魚の肉を献上せざるを得ない状況となってしまった。

 閣議完了後、若槻・幣原・市木の三名は、山本五郎左衛門が座して待つ宮中省へと急行したのであった。
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