序ノ弍 厳戒の帝都にて

文字数 3,269文字

「山本殿、今回の申し入れについて、妖人族の秘宝薬を献上品として手交する旨、本日開催の閣議にて決定された」

 宮内省内特別貴賓室にて、若槻が山本五郎左衛門へ提案に対する回答を告げた。

「しかしながら、山本殿の要望については閣議決定なされるべき案件にあらず。
 陛下の御恢復を待ち、陛下による勅令として国会にて審議する場を設けるという約定しか叶わないのだが…宜しいだろうか?」

 陽ノ本国が議会民主制および君主勅令制の混成制度を採択していたがために、勅令を発する帝が病床に伏して片翼をもがれた如き現状では、もう一方の翼であるところの帝国議会を経由してのみ、法改正を行わざるを得なかったのであろう。

「身共はその応対に否やはございませんとも、先だっての合議での既定路線でもありますからねぇ」

 いささか馴れ馴れしい口調で山本五郎左衛門は三日月の形に似た微笑みを深くすると、若槻・幣原の両名へと視線を送った。

「山本よ、試すような真似はせずとも良かろう。
 市木宮中省大臣は政治的野心とは無縁であり学究の徒であるからな、この部屋での合議も漏洩する心配はあるまいて」

 幣原も常時の機人の中の機人と揶揄される鉄面皮を脱ぎ捨てた様子で、山本五郎左衛門に語り掛けた。

「妖人族の悲願である帝国臣民としての権利と、来るべき帝国空軍創設および空軍大臣の座を頂戴できれば、こちとらそれ以上の権勢を求めようとは思っておりませんがね」

 山本五郎左衛門がぬけぬけと未決定の人民区分法改正および、今日現在には存在すらしていない、帝国空軍について言及するに至った。

「お、お三方は何を謀っておられるのだ?
 それに、帝国空軍とは?この合議は陛下に献上する人魚の肉についての対応ではなかったのか?」

 市木の混乱する問いかけは、常識的かつ至極真っ当な指摘でもあった。

「市木よ、違うのだ。
 彼ら三名が謀ったのではない、朕が帝国臣民の全てを謀っているのだ」

 特別貴賓室の扉が押し開かれ、室内に足を踏み入れつつ市木の問いに応えたのは、誰あろう今上天皇嘉仁(よしひと)であった。

「へ、陛下は…病状が重篤であると…」

 狼狽する市木は、全身が(おこり)の如くブルブルと震えながらも、嘉仁の無事を確認した喜びに涙を流しながらその足下に跪いた。

「市木、すまない。
 朕にかような心配りをしてくれるとは、ありがたい限りだ」

 巷説とは違える穏やかかつ落ち着いた声音で、嘉仁は市木機徳郎を労った。

「陛下のご病状が恢復されておられたのであれば、人魚の肉とやらは不要となられたのですか?」

 市木の問いかけに、嘉仁は薄く寂しげな笑顔を浮かべた。

「そうではない、小康を保っているとは云え、朕の身体はもはや限界に近付いている。
 だからこそ伝説の人魚の肉を求め、陽ノ本の国に住まう三族…人間・機人・妖人の代表が一堂に会したこの場で、人魚の肉を朕の身に取り込まなければならないのだ」

 その声音には、決して命を永らえるためだけの怯懦さが理由ではない、との意志が込められていた。

「宮中省大臣・市木機徳郎よ、人間の代表者である内閣総理大臣・若槻禮次郎、機人の責任者である内閣副総理大臣・幣原機重郎、そして新たに帝国臣民となる妖人の支配者であり百鬼夜行の首領・山本五郎左衛門と共に、朕が新たなる存在となる瞬間を見届けてはくれまいか?」

 陽ノ本国の統治者である、天皇に頼まれて拒絶できるような帝国民は皆無だと云えよう。
 市木はこれから発生する事案への恐怖を包み隠そうともせず、息を押し出すように肯定の返事を告げた。

「山本よ、人魚の肉を朕に」

 山本五郎左衛門は右手に握りしめていたアタッシュケースを、応接テーブルの上に据えた。
 
「こちらが妖化一族の秘宝、人魚の肉でございます」

 山本五郎左衛門が言葉を発すると同時に、アタッシュケースの留め金を外しその蓋を押し上げると、その内側から今日の外気よりも凍てついた空気が漏れ出した。
 瞬間、室温との差異により(もや)のように水蒸気が特別貴賓室内を覆った。

「これが…人魚の肉であるか…」

 嘉仁が嘆息と共に感嘆の呟きをあげるのも無理はなかった。
 人魚の肉と名付けられたモノであるからには、何らかの肉質を備えた獣肉か魚肉のようなモノを想像していたのだろう。
 しかしながらアタッシュケースの中に収められた人魚の肉とは、ブヨブヨとした灰褐色の塊…ともいえない不定形なモノであった。
 近しい物体を敢えて挙げるならば、生気を失い砂浜に打ち上げられた、薄汚れたクラゲの様であろうか。

「陛下、雪女の冷気を閉じ込めたアタッシュケースの封印は解いてしまいましたぜ。
 手早く飲み込んで頂かねぇと、融けて蒸発してしまいますよ」
 
 山本五郎左衛門がこの日初めて慌てたような様子を見せるからには、この発言に嘘偽りの類は含まれていないのであろう。

 嘉仁は元よりの青白い顔をさらに蒼白へと変じながら、生身の右手を用いて人魚の肉を掴み取った。
 持ち上げた瞬間『ビクンッ』と脈動しつつ、のたくるように逃亡を図ろうとするモノを、嘉仁は顔を上向きにし口を大きく開けて一気に飲み干した。

「グ…ムム…」

 嘉仁が喰らっているのだろうか、嘉仁が喰らわれているのだろうか。
 のたうつ灰褐色の物体が蠢きながら、嘉仁の体内に収納されていく。
 人魚の肉と称されたモノが、立ち会った四名の眼前より消失した直後より、嘉仁の様子が突然変化した。

「うぉあぁぁぁっ!」

 両手で喉元を掻き毟り、時の天皇が床面を転げ回った。
 その(おもて)は紅潮した直後に色を失い、人間の肉体を残す部位には青く血管が浮き上がり脈動していた。

「陛下!陛下っ!」

 なす術なく見守る市木機徳郎の叫ぶ声だけが、特別貴賓室に響き渡る。

「誰ぞ医師を!侍医をこれへっ!」

 市木が特別貴賓室の扉に取り付き、この部屋より飛び出そうとした瞬間に変化が起こった。

 ジュヴジュヴと空間が軋むような音を立てたかと思うや否や、室内の空気が突如として変質し、室内に身を突き刺すような冷気が満ち溢れたのである。

「市木よ、大事ない…朕は健在であるぞ」

 確かに市木へと語りかける声音は聞き覚えのあるものだったが、耳に届くその音声は例えようもなく異質な音であった。

 先刻までの苦痛に満ちた狂態がほんの冗談であったかのような、涼やかで健康的にさえ見える立ち姿の嘉仁から発せられる声に、四人の男達はただただ瞠目するのみであった。

「案ずるな、朕を新たなる生へと導いた三賢人、ラルヴァンダー、ホルミスダス、グスナサフよ。
 そして朕の忠実なるアポステルよ」

 それぞれ呼ばわれた順に、若槻・幣原・山本・市木が、新たなる生物に進化した嘉仁の眼前に拝跪した、いや嘉仁から発せられる重圧に跪かざるを得なかった。

「人間による大陸制覇を帝国陸軍の手で」

 若槻=ラーヴァンダドが冷静の内に誓詞を奏上する。

「機人による七海支配を帝国海軍の手で」

 幣原=ホーミスダスが冷徹を以て宣誓を述べあげる。

「妖人による天空覇権を帝国空軍の手で」

 山本=グスーナサフが冷笑を浮かべ誓約に従属する。

「帝国臣民による国土の繁栄を今上天皇陛下へと奉納いたします」

 市木=アポステルが冷汗を滴らせ誓言を絞り出す。

 かくして大正十五年十二月二十五日、陽ノ本国第百二十三代天皇嘉仁により帝国憲法の改正が勅令により発布された。
 曰く下記の通りである。

「人民区分法二基ヅキ帝国臣民ハ、人間族、機人族、妖人族ノ三族ヨリ成リ立チ、三族ハ選挙民ノ義務トシテ等シク皇家二奉仕スル事トス」

「帝国議会法二基ヅキ帝国議会ハ、人民院、機族院、妖化院ノ三院を以テ成立シ、当代ノ天皇ヨリ任命サレシ三院ノ議員二ヨリ内閣ヲ樹立セシメ、国府ノ運用ヲ行ワントス」

「帝国軍成立法二基ヅキ陽ノ本帝国軍ハ、帝国陸軍、帝国海軍、帝国空軍ノ三軍ヲ以テ成立セシメ、帝国陸軍大臣ハ人民院、帝国海軍大臣ハ機族院、帝国空軍大臣ハ妖化院ヨリ選出シ、当代ノ天皇二ヨリ任命スル事トス」

 これより陽ノ本国は全世界を巻き込みつつ、未曾有の動乱期に突入することとなったのである。
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