第196話 日常から

文字数 1,578文字

 某女子大学が家の近所にあるといえばある。
 買い物の帰り道、そこで品の良い老女みたいな人に「すみません」と話し掛けられた。
 はい。
 あの、私奈良に引っ越してきたばかりで… 正門はどちらでしょう?
 この通りにはその大学の門が二つある。
 ああ、あっちの… 今男の人が歩いてる、あちらに守衛さんがいらっしゃるんで、たぶんあっちが正門だと思います。
 ああ、そうですか。と婦人。
 何やらスケッチ、写生をする会に入って、その場所取りをするのだとかいう話だった。
 確かに、この女子大の道路を挟んで向かいのベンチによく人が座って絵を描いているのを見かける。
 こっちの正門でない方の門は、赤い屋根みたいな扉があって、絵本から飛び出てきたような風情がある。国立なのに、何だか私学のような、こぢんまりした大学だ。
 どうもありがとうございました、ご面倒おかけしました。
 いえいえ、どういたしまして…。
 何となく二人、笑って bye-bye。

 こないだは三条通りを歩いていると、ビキニみたいなすごい恰好をした外国人女性に道を訊かれた。
 Starbucks?
 ああ、スターバックス・キャフェ…
 困った。JR駅の横にも目立たぬようにひっそりとあるし、猿沢池の方にもある。もう一つ、この近くにあったような…。
 返答しあぐねていると、OK!と言って彼女はさっさと行ってしまった。
 お役に立てず、ごめんなさい。お気をつけて、とでも言いたかったが、英語で何と言っていいか分からなかった。

 何か聞かれるわけではないが、いつかのスーパーでは店員が、にやにやしながら私の方をじっと見ていた。
 レジでたまにお世話になる人だが、その時彼女は商品棚の方にいた。
 今夜は何にしようかと逡巡しながら歩いていた自分と、ほんの1mほどの距離だったと思う。こっちは視線を合わせなかったが、じっと立ち尽くして見られていた。
 またこの頃はコンビニでよくタバコを買うのだが、そこの店員も、いつもはレジにいるのにその時は通路にいた。
 自分が入っていくと、その通路に立ってじっとこちらを見ていた。五秒間位、向かい合うような形になってしまった。

 自意識のせいではない。明らかに「何もせず、何も言わず、ただ立って、じっとこっちを凝視する」時間と、その存在があった。
 そんな敵意のある目線ではなかった。こいつ万引きでもするのかという不審の目でもなかった。
 といって勿論好意でもなく、何か不思議な動物、人間なのだが、アニマルでも見るような感じ。
 そのたびに、といってもこの二回だけだが、何となくシュンとしてしまう。自分はどこにでもいるオッサンだし、奇抜な恰好もしていない。GパンにTシャツの、お金持ちには見えないだろうが、そんな貧乏人にも見られないはずの、どこにでもいる、「多数派」に属する容姿だと思う。

「めったにない顔してるんじゃない?」「胸があるから、Tシャツで目立ってるんじゃ?」とは家人の意見だが、「セックスアピールが強いんだろうな」とある人から言われたことがある。
 セックスアピール? わけがわからない。どうやってそんなアピールするんだよ… 「セクハラ」と同じ論理か。

 道を訊かれたり、話し掛けられたりするのは宗教の勧誘以外全然大丈夫だ。
 でも「ただ見つめられる」のは困る。どうしていいか分からなくなる。
 いつかの冬は犬の散歩をしている中年男性に、じーっとほんとに凝視された。路地を曲がって自分が姿を見せ、その路地を曲がるまでだったから、10m以上はゆうにあった。犬は電柱から動かず、その男性も電柱から動かなかった。
 こちらとしては、目線を合わすことができず、やっぱり下を向いたりすることになる。
 どういう動機であれ、人のことを無遠慮にまじまじと見つめることのできるその神経、傍若無人のような神経が、自分にはよく分からない。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み