第137話 ナセル氏とナセバ氏の話

文字数 870文字

「彼女は僕のことを信じてくれているらしい」
彼が言った、
「でも、僕の一体何を信じているのか解らないんだ」

「信じてる、と言った彼女も、その何をが何か解らないと思うよ」
私が言った、
「だって信じるも信じられるも、する方もされる方も、そうさせるものが一体なのか、知らないままにそうしているんだから」

「約束を守るとか、真面目だとか」
「それは表面、目に見えてるだけじゃないか。信じるってのは目に見えない心のもんだいなんだから」

「表面、行ない、言葉が、信じられる目安にならんかね」
「表面ができることは、いつもきっかけ(・・・・)をつくるだけだよ。それに反応して、心が判断するんだ、信じられるかどうかを。ということは、そのきっかけがない限り、信じるも信じないも無いわけだ。無いもの、無かったものが心ってやつだ。すると、悲しみも苦しみも、喜びも淋しさも楽しさも、同じ道理だ。無かった心が、反応する対象を見つけて、ひとりでそうしているだけなんだ。対象やきっかけがなければ、心は無いままさ」

「探すよね。対象を。心は」
「だから苦しんだり悲しんだりしている人は、自分からすすんで好きでそうしているんだよ」

「きみは医者だろう? そんな対応をして、

は来るのかね?」
「医者なんて、儲からないほうがいいんだよ。人生相談でも、相談者はもう答をもって、相談しに来るんだ。わたしはその答の確認係、責任転嫁の受け皿さ。ひとりだけでは心細いんだね。ひとりでしか答は出せず、ひとりで判断できてることに、いちいち確認、《同意》が必要なんだ。専門職、なんて言ったって、人間一人一人が自分を専門とする専門職なのにねえ。知識だの用法だのを、わたしみたいな医者って権威に求めて来る… その人のことなんか、わたしゃ知らんよ」

「たいへんだね」
「こっちもきっかけを与えることしかできないんだがね。まったく、信じられるのが何だっていうんだ。こっちがおかしくなりそうだよ。おべっか使って、患者のご機嫌とり、顔色ばかり伺ってさ。ほんとうのことを言わない医者ばかりが繁盛する。頭が痛いよ。だれか、いい医者、知らんかね…」
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