第110話 「静かな生活」

文字数 956文字

「M/T。このアルファベットふたつの組み合わせが、僕にとって特別な意味を持つようになって、もう永い時がたちました。ある人間の生涯を考えるとして、その誕生の時から始めるのじゃなく、そこよりはるか前までさかのぼり、またかれが死んだ日でしめくくるのでなしに、さらに先へ延ばす仕方で、見取り図を書くことは必要です。
 あるひとりの人間がこの世に生まれ出ることは、単にかれひとりの生と死ということにとどまらないはずです。かれがふくみこまれている人びとの輪の、大きな(かげ)のなかに生まれてきて、そして死んだあともなんらかの、続いてゆくものがあるはずだからです。
 僕は自分にとってのその見取り図に、M/Tという記号をしっかり書き込んでいるように思うのです。それも生涯の地図の、じつにいろいろな場所に繰りかえして。」(大江健三郎「M/Tと森のフシギの物語」岩波書店、同時代ライブラリー)

 そうなんだよ、これなんだよ、と思う。
 戦争、核、… 人と人が殺し合う、人間にとっての「この世」、ひとりひとりの生、それを滅ぼすやり方に、ぼくが生理的に嫌悪を、どうしようもない嫌悪を抱いてしまう、その理由をつければ。

 セリーヌの「戦争」(幻戯書房、ルリユール叢書)の訳者解題から大江のセリーヌ愛を描いた「小説の悲しみ」(「静かな生活」の中の一篇、講談社)を教えられ、そこからまた「M/T…」を教えられ、この本のページをめくった。
 大江の本は捨てられない。こうして立ち返る、また読まねばならないことになる。久しぶりに読んで、その面白さも体感する。
「小説の悲しみ」の最後は爆笑してしまった。イーヨーはほんとにイイヨ。
 この「M/T…」の冒頭、引用したのは冒頭部分、何年も前に読んだ時は、ピンと来なかった。それが今読み返せば、ずんずん入ってきた。そして落ち着く。確認ができる。輪郭だけだったものに、中身が入ってくる、それを確認する…

 人類として、とにもかくにも歩んできたわけだ、それなりの時間をかけて。それを止めるわけにはいかないんだよ。少なくともぼくは。止めることに、同意はできないんだよ… 今が、たとえ戦争に限らず、人間にとっての環境的に、(うつつ)に生きるに困難な、生存に困難な環境が、この行進を止めてしまう、そんな未来がすぐそこまで来ているのだとしても。
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