第93話 チャイム

文字数 1,067文字

 河合が、狂気を滲ませた目を見開いて、ナイフを振り上げたそのとき、玄関のチャイムが鳴った。だが、一瞬手を止めた彼女は言う。
 
「関係ないわ。鍵がかかっているし」

 だが、チャイムは何度もしつこく鳴る。葉菜から目を離さないまま、河合は言う。
 
「余計なことをしたら、すぐに刺すわよ。どっちにしても、もうあんたに逃げ場はないの」

 河合の言う通りだ。葉菜は今、鍵のかかった家の中の、さらにドアの閉まった部屋の中にいて、自分をナイフで刺そうとする相手と対峙している。
 
 たとえ叫んで助けを求めても、河合の行動を速めるだけだ。もう助かる道はない。
 
 そう思って天を仰いだのだが。
 
 
 
 突然、バタバタと足音がしたかと思うと、勢いよく部屋のドアが開いた。
 
「未玖!」

 それは、河合の父親だった。
 
 手に、鍵のついたキーホルダーを握りしめている。なるほど、この洋館の所有者なのだから、鍵を持っていて当たり前だ。
 
「未玖、ナイフを離すんだ!」

 だが、河合は、素早くドアから離れながら叫んだ。
 
「来ないで! 来たら死ぬから!」

 そして、自分の喉元にナイフを突きつける。
 
「未玖、馬鹿なことはやめるんだ」

「うるさい! どうせ私は馬鹿よ!」

 河合は、父親に向かって泣き叫んでいる。父親は、河合に釘付けになっていて、誰も葉菜を見ていない。
 
 
 葉菜は気づかれないように注意しながら、ゆっくりと後方から河合に近づく。幸いなことに、高級そうな絨毯のおかげで、足音を心配する必要はない。
 
 だが、うまく行く自信はない。ああ、神様! 
 
 一瞬、目だけを動かしてちらりと葉菜を見た父親が、声のトーンを落として河合に話しかける。あるいは、葉菜の意図を察したのだろうか。
 
「パパが悪かった。全部パパのせいだ。未玖の気持ちを踏みにじって済まなかったね」

 その間にも、葉菜は河合ににじり寄る。あせってはいけない。ゆっくり、ゆっくり……。
 
「さあ、ナイフなんか捨てて、こっちにおいで。うちに帰ろう。ママも待っているよ」

「パパ……」

 河合が涙声でつぶやき、ナイフを持った手を、わずかに下ろした。切っ先が喉から離れる。
 
 今だ! 葉菜は、河合に素早く駆け寄りながら、渾身の力を込めて、ナイフを持つ手元を目がけてトートバッグを叩きつけた。
 
 ナイフが手を離れ、絨毯の上を転がる。
 
「未玖!」

 すかさず父親が駆け寄り、両腕で河合を抱きしめた。
 
「あ……あ……パパァ!」

 河合が号泣する。
 
 
 ああ、うまく行った。ほっとするのと同時に、全身の力が抜け、葉菜は、その場にぺたりと座り込んだ。(終)
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