第62話 パジャマの袖

文字数 979文字

 突然、佑紀乃が悲鳴を上げた。一瞬、何が起こったのかわからなかったが、チクリとした感触に、全身に緊張が走る。
 
 見下ろすと、河合にパジャマの襟元をつかまれ、いつの間に取り出したのか、ナイフの切っ先が喉元に当たっている。河合は、ベッドの上に片膝をついている。
 
「未玖さん、早まらないで!」

「うるさい! 全部あんたのせいよ。人の家庭をめちゃくちゃにして、好き勝手なことを言って。

 それにしても、あんたたちが、ここにこうして一緒にいるなんて、悪い冗談みたい。そういえば、あんたたちってよく似てるわよね。
 
 か弱そうなふりをして、人の同情を買うのが上手くて、その実、人を思うままに動かしていい気になってるクソ女ども。ホントに恐ろしいったらありゃしない。
 
 私はそういうやつらが大嫌いなんだよ!」
 
「お願い未玖さん、葉菜ちゃんを放してあげて」

「黙れ、偽善者! それ以上ふざけたことを言ったら、本当に刺すよ」

 刃先が喉に食い込み、全身から、どっと汗が噴き出す。

「わかったわ。なんでも言うことを聞きます。どうすればいい?」

 佑紀乃の言葉に、河合がふんと笑った。
 
「最初から、素直にそう言えばいいのよ。あんたは今すぐ、ここを出て行きな。

 ここはパパとママと私の大切な場所なんだから。出て行って、二度と私たちの前に顔を見せるな!」
 
「わかったわ。今すぐ出て行きます。そうしたら、葉菜ちゃんを解放してくれるのね?」


 河合がうなずいたとき、突然、佑紀乃のポケットの中でスマートフォンが鳴り出した。注意がそれたのか、河合のナイフを持つ手がかすかに緩んだ。
 
 考えるより先に、体が動いた。とっさに葉菜は、河合を思い切り突き飛ばしたのだ。
 
 だが、急いでベッドから離れようとしたものの、掛け布団に足を取られ、そのままベッドから転げ落ちてしまった。
 
「てめえ!」

 河合が躍りかかって来たのと同時に、左の上腕部に何かが当たったかと思うと、数秒遅れて痛みがやって来た。
 
「葉菜ちゃん!」

 佑紀乃の悲鳴。スマートフォンは、まだ鳴り続けている。
 
 上腕部を見ると、パジャマの袖が切れていて、そこが見る間に赤く染まっていく。
 
 
「三丘さん、葉菜ちゃんが!」

 佑紀乃が電話に向かって叫んでいるのが、やけに遠くに聞こえる。お姉ちゃんから? 今頃、遅いよ。
 
 その後しばらくのことを、葉菜は覚えていない。
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