第52話 二人 ~ Alice and White Rabbit
文字数 5,535文字
写真に写る自分の姿を見て、徐々に記憶が甦ってくる。これは確か二十才の頃だろうか……まだ大学生の時で、バイトに明け暮れていた頃だと思う。
この写真も何かのバイトだったと思うのだが……詳細が思い出せない。
――お兄ちゃん
ふいに幼女の声が聞こえてくる。
幻聴? いや有里朱か?
「呼んだか?」
『ううん、何も言ってないよ。ねえ、どうしたの、急に黙り込んで」
ん? 気のせいか? まあ、とりあえず写真の件を確認しておこう。
「この写真のこの子は有里朱なんだよな?」
俺は右端の幼女を指さす。
『うん、そうだけど』
そして左端の男を指しこう告げた。
「これは俺だ」
『これが孝允さんなの?』
「おまえが五才であるならば、十年くらい前の俺だな」
『うふふ……なんか冴えない男の子って感じ。十年前だから、二十歳くらいかぁ……わりと童顔なのね。高校生って言っても通じるんじゃない?』
「ひどい言われようだな。たしかにイケメンではないけどさ」
少しふてくされる。まあ、顔面偏差値は誇れるほどないので今さらなのだが。
『イケメンかどうかなんて人によって違うと思うよ。中学の時のクラスメイトの子で、ある俳優さんをイケメンだって言ってたけど、人によっては「全然イケメンじゃないよ」って子もいたよ』
「おまえはこの写真の俺のことをどう思うんだよ?」とは聞けなかった。勝てない勝負はすべきではない。俺は誤魔化す意味で話を元に戻す。
「しかし偶然ってのは心臓に悪いな。おまえはなんか覚えてないか?」
この時はお互いに知らなかったわけだから、有里朱のことが記憶に残らないというのはわかる。だが、その時の状況くらいは思い出してもいいような気がするが、記憶の引き出しからは何も取り出せない。
『うーん……なんだろう? わたし幼い頃の記憶ってあんまり残ってないんだよね』
「まあ、覚えてなくて当然だわな。五才くらいまでの記憶って失われやすいらしい。幼児期健忘といって、海馬の発達が不十分のために記憶が残りにくいって説もある」
『でも、わたしたち出逢ってたんだよね』
出逢っていたという言葉にドキッとする。今の状況を考えると運命の出逢いでもある。だが……。
「……うーん、その言い方はちょっとアレだぞ?」
『アレって?』
「俺が二十才 で、おまえが五才だろ? それで男女の出逢いとか言ってると少女性愛者 どころか、幼児性愛者 じゃねえか! ってなるだろ?」
頭をかすめるのは某エルが付くkonozamaで取り扱いが中止された成年向けコミック雑誌。いやいや、さすがにそれはマズいって。
次の日、めずらしく朝から母親の機嫌が良かった。ということで、昨日見つけた写真のことを聞いてみる。
気分屋だけに話しかけるタイミングが難しい。機嫌が悪いだけで会話が成立しないことも多いから、今がチャンスだった。
「あ、あのね……昨日部屋の掃除をしてたら、こんな写真が見つかったんだけどさ。これってどこで撮ったものなの?」
演技モードのスイッチを入れ、違和感のない有里朱を演じる。緊張で心臓はバクバクと鳴っていた。
「写真? どれ見せて?」
俺は恐る恐る母親へと昨日見つけた写真を渡す。刻まれた恐怖からか、思わず手が震えてしまっていた。有里朱の感覚の一部が流入してくるようだ。
この親子関係もなんとかしたいよなぁ……。絶対、虐待とか受けてただろ?
「これなんだけどさ」
一瞬だけピリリと空気が張り詰めた気がした。母親が纏うオーラが変質したのは気のせいだろうか。
「あら、あなたが五才の時のものね。懐かしいわ」
自分の感情をごまかすかのように、引きつっていく母親の顔。おいおい、なんだよこの雰囲気。
「それどこで撮っ――」
「お母さん、用事があるからもう出るね」
写真は返却されず、しかも食べかけのパンが入った皿を持ったまま母親はキッチンへと入り、中身をシンクの中へと乱暴にぶちまける。このマンションは全室ディスポーザー付なので、生ゴミはそのまま粉砕して流してくれるので問題はないが、初めて見る母親の反応だった。
「えっと……」
後に残される俺たちは唖然としていた。
『お母さん、めちゃくちゃ機嫌悪い……』
有里朱が脅えたように呟く。明らかに写真を見て気分を損ねたようだ。だが、それを俺らの前でぶちまけないということは、秘密を隠し持っているということだろう。
「何か知ってるな……」
それも昔話を穏やかにできるような普通の事じゃないだろう。いったい何があったのか……。
『どうしよう。写真持ってかれちゃった』
「まあ、スマホで撮影しておいたし、大した問題じゃない。けど、あの分だと何かを隠そうとしている」
『ごめんなさい……』
「おまえが謝る必要はないだろ」
『そうだけど……何かわかるかもしれなかったのに』
「そのことは優先順位が低いから、大した事じゃないよ」
**
写真の件は一旦保留。
それよりも目の前のことへと集中する。佐倉先輩やめぐみ先輩の協力もあって、松戸美園を追い詰める計画は順調に進んでいた。
こちら側の味方を削ぐという彼女の計画を逆に利用し、罠を張って松戸の配下となった者を次々救出するという作戦を遂行していく。
結果的に、松戸の校内での仲間はほとんどいなくなった。休み時間も昼休みもほとんど一人で寂しそうにぽつんといるだけだ。多くの取り巻きを作って闊歩していた彼女からは考えられないほど、悲壮に満ちた存在に落ちぶれていた。
誰一人として彼女に話しかけないだけでなく、陰口を叩かれ嗤 われる。
かつての有里朱のような立場に堕ちていた。
松戸美園にとっては二度目の屈辱であるはずだ。
これで猛省してくれるのなら楽でいいのだが、そうはいかないだろう。
『これでおとなしくしてくれるかな?』
「だといいけど、おとなしいのは校内だけみたいだからね」
『そうみたいだね。地元のヤンキーさんたちと遊び回ってるみたいだし』
「ヤンキーにさん付けはやめなさい。せめてDQN と呼ぼう」
『どきゅん?』
やっぱり一般人にはこの呼び方は浸透していないんだろうな……。
「まあ、いいや。とりあえずスパイもいるし動向は把握できるから問題はないよ」
スパイというのは、前に俺たちを拉致しようとしたDQNの一人だ。シュールストレミング液で撃退したあと、そのリーダーを懐柔した。いや、脅迫だったかな。
松戸美園の動きを俺たちへ報告しろと指示してある。このおかげで、校外での彼女の行動が逐一LINFに送られてくるのだ。
だから彼女が、有里朱を再び拉致しようと計画していることも、すでに俺たちには筒抜けなのであった。そのおかげで、あとは反攻作戦の実行を待つのみである。
さらにプレザンスさんからは松戸一族の情報が集まりつつある。といっても、肝心の『警察と繋がっているのではないか?』という情報だけは裏が取れないらしい。
ゆえに警察に全面的に頼るという方法はリスクが高いので却下した。万が一の可能性を考えてだ。なるべく警察沙汰にならない方向へと持って行く。
反攻作戦のプランはいくつか用意し、そのほとんどは合法的に退場してもらう方法だ。
短絡的に復讐で相手を殺すのは、現実であろうがフィクションであろうが好きではない。なぜなら、死は懲罰にはならないからだ。
かつて俺が自殺しようとした時に感じたように、死は逃げ場でしかない。復讐する相手をみすみす逃がしてしまっていいわけがないだろう。
そもそもここは異世界などとは違い、法と秩序に守られた現代社会なのである。わざわざこちらがリスクを犯すのは得策ではない。
だから徹底的に追い詰め、そして逃がさない。奴が『いじめ』という行動をとることを完全に封じる。これが今回の作戦の最終目的でもあった。
松戸美園の性格は、生半可な脅迫で矯正できるものではない。今までのいじめっ子のような甘い対応は、逆にこちらが不利となる。だから、やるなら徹底的に封じるのだ。
ピコンと、スマホにLINFのメッセージ通知が来る。相手は例のDQNだが、定時連絡ではなく拉致計画の重要な情報だった。
@YAGIRI KING【拉致は2/14から16にかけての放課後に行う予定らしいです】
@YAGIRI KING【お気を付けて】
@アリス【ありがと】
@アリス【例の件もよろしく】
『YAGIRI KING』ことDQNにそう返すと、今度はLINFの互恵グループにメッセージを送る。
@アリス【2/14の放課後にDQH実行】
@アリス【各自準備をよろしく】
DQHは反攻作戦のコードネームでもある。Destroy the Queen of Heartsの略称でもあった。
今日は十二日なので、二日あればこちら側の準備も整うだろう。といっても、面倒な作業はほとんど俺なんだけどね。
少し前に互恵メンバーには作戦概要は伝えてあった。文芸部のかなめとナナリーとミドリー以外にも、花見川先輩にも手伝ってもらうことにしている。唯一アクティブに行動できる人物なので、今回の作戦にはかなり重要な役割を担ってくれる。
そして相手側の決行が三日間なのは、拉致しやすい状況を作るためだと思われる。奴らにまだ心の余裕がある初日に決行するのがベストだ。最終日になると松戸の周りの奴らが焦り始めて暴走する可能性もあるのだ。下手な動きをされないためにも、相手に「ちょろい」と思わせることが肝心である。
『だいじょうぶかな? ドキドキしてきたよ』
その声とともに有里朱の緊張が伝わってくる。
「これで本当に最後だ。うまく行けばこちらに被害がないまま、松戸美園を完全に封じることができる。まあ、少しでも被害が出そうであれば、強硬手段をとって相手側の被害が大きくなるだけなんだけどね」
『どっちにしろ松戸さんに勝ち目はないんだ』
自分と仲間達の安全が最優先のため、それなりの保険は考えてある。
「ああ。ただ、一つだけ確かめたいこともあるから、あんまり手荒な真似はしたくないけどね」
『確かめたいことって?』
「例の中学での自殺の件だよ」
『そういえばプレザンスさんからのメールでも決定的な証拠がないって書いてたね。でも、ほとんど確定じゃないの?』
「確定として動くつもりだけど、真実は本人の口から吐いてもらうのが一番だ。そのためのネタもたくさん用意しているからな」
**
「えー、今日部活出られないの?」
帰り際にかなめと会話をして、打ち合わせどおりに演技を開始する。やや大げさに、周りに声が聞こえるようにだ。
「うん、ごめんね。今日、用事があってさ」
「だったら、しょうがないね」
視界の片隅で、一人の生徒がこちらを覗っている。本来ならばその場で連絡をとるつもりだったろうが、スマホ禁止となった今学期からは放課後にならないと学校側から返してもらえない。
俺たちの会話が終わるや否や、その女生徒は廊下へと駆け出していく。
実は松戸の配下を一人だけ泳がしておいたのだ。彼女は有里朱の様子を報告するためだけに配下にさせられた一人であることは把握していた。脅されたままでかわいそうな存在ではあるが、どのみち松戸美園を封じれば彼女は解放されるのだから問題はないだろう。
「うまく引っかかったみたいだね」
かなめがほっと吐息をつく。
「これで松戸美園は拉致計画を実行する。だから、あとは予定通りお願いね」
「うん。けど、ちょっと心配」
「心配?」
「あっちゃん一人を危険な目に合わせることになるし」
直接身の危険が降りかかるのは有里朱だけだからな。だからといって、他の子たちに代わりはさせられない。
「大丈夫だよ」
俺は真剣な目で彼女を見る。
「あなたは今、あっちゃんじゃなくてロリーナさんなのよね?」
さすがに声を潜めるかなめ。多重人格設定は内緒にしているからなぁ。
「ええ、そうよ」
「あっちゃんを頼んだわよ。何かあったら、あなたを一生恨むからね」
「わかってる」
かなめに対して「任せておけ!」という意味で微笑みを返した。
「さてと」と独り言を零しながら、耳の中に超小型イヤホンマイクを押し込む。これは服に縫い込んだタブレットとBluetoothで繋がっている。タブレットは外部をモニターしながら、部室にあるPCへと映像と音声を送り続けていた。いわゆるネット生配信の原理を使っている。
これはリアルタイムで動画などをインターネット上に公開する仕組みだ。現在はネット上とはいえ、とある動画サイトの限定生放送枠なので一般人には見られない状態だ。設定一つで全世界への公開は可能である。
とはいえ、今回は撮影自体が目的ではないので、最悪バレてもなんとかなる作戦だ。
「ミドリー聞こえる?」
―「うん。感度は良好だよ。映像もモニターできてる」
「花見川先輩、聞こえますか?」
―「こちらもオッケーよ。配置についたわ」
「ナナリー。ミドリーへのバックアップと花見川先輩へのナビをよろしく」
―「了解。アリス、気をつけてね」
「うん、じゃあ行ってくるね!」
俺は教室を出て下駄箱へと向かった。
この写真も何かのバイトだったと思うのだが……詳細が思い出せない。
――お兄ちゃん
ふいに幼女の声が聞こえてくる。
幻聴? いや有里朱か?
「呼んだか?」
『ううん、何も言ってないよ。ねえ、どうしたの、急に黙り込んで」
ん? 気のせいか? まあ、とりあえず写真の件を確認しておこう。
「この写真のこの子は有里朱なんだよな?」
俺は右端の幼女を指さす。
『うん、そうだけど』
そして左端の男を指しこう告げた。
「これは俺だ」
『これが孝允さんなの?』
「おまえが五才であるならば、十年くらい前の俺だな」
『うふふ……なんか冴えない男の子って感じ。十年前だから、二十歳くらいかぁ……わりと童顔なのね。高校生って言っても通じるんじゃない?』
「ひどい言われようだな。たしかにイケメンではないけどさ」
少しふてくされる。まあ、顔面偏差値は誇れるほどないので今さらなのだが。
『イケメンかどうかなんて人によって違うと思うよ。中学の時のクラスメイトの子で、ある俳優さんをイケメンだって言ってたけど、人によっては「全然イケメンじゃないよ」って子もいたよ』
「おまえはこの写真の俺のことをどう思うんだよ?」とは聞けなかった。勝てない勝負はすべきではない。俺は誤魔化す意味で話を元に戻す。
「しかし偶然ってのは心臓に悪いな。おまえはなんか覚えてないか?」
この時はお互いに知らなかったわけだから、有里朱のことが記憶に残らないというのはわかる。だが、その時の状況くらいは思い出してもいいような気がするが、記憶の引き出しからは何も取り出せない。
『うーん……なんだろう? わたし幼い頃の記憶ってあんまり残ってないんだよね』
「まあ、覚えてなくて当然だわな。五才くらいまでの記憶って失われやすいらしい。幼児期健忘といって、海馬の発達が不十分のために記憶が残りにくいって説もある」
『でも、わたしたち出逢ってたんだよね』
出逢っていたという言葉にドキッとする。今の状況を考えると運命の出逢いでもある。だが……。
「……うーん、その言い方はちょっとアレだぞ?」
『アレって?』
「俺が
頭をかすめるのは某エルが付くkonozamaで取り扱いが中止された成年向けコミック雑誌。いやいや、さすがにそれはマズいって。
次の日、めずらしく朝から母親の機嫌が良かった。ということで、昨日見つけた写真のことを聞いてみる。
気分屋だけに話しかけるタイミングが難しい。機嫌が悪いだけで会話が成立しないことも多いから、今がチャンスだった。
「あ、あのね……昨日部屋の掃除をしてたら、こんな写真が見つかったんだけどさ。これってどこで撮ったものなの?」
演技モードのスイッチを入れ、違和感のない有里朱を演じる。緊張で心臓はバクバクと鳴っていた。
「写真? どれ見せて?」
俺は恐る恐る母親へと昨日見つけた写真を渡す。刻まれた恐怖からか、思わず手が震えてしまっていた。有里朱の感覚の一部が流入してくるようだ。
この親子関係もなんとかしたいよなぁ……。絶対、虐待とか受けてただろ?
「これなんだけどさ」
一瞬だけピリリと空気が張り詰めた気がした。母親が纏うオーラが変質したのは気のせいだろうか。
「あら、あなたが五才の時のものね。懐かしいわ」
自分の感情をごまかすかのように、引きつっていく母親の顔。おいおい、なんだよこの雰囲気。
「それどこで撮っ――」
「お母さん、用事があるからもう出るね」
写真は返却されず、しかも食べかけのパンが入った皿を持ったまま母親はキッチンへと入り、中身をシンクの中へと乱暴にぶちまける。このマンションは全室ディスポーザー付なので、生ゴミはそのまま粉砕して流してくれるので問題はないが、初めて見る母親の反応だった。
「えっと……」
後に残される俺たちは唖然としていた。
『お母さん、めちゃくちゃ機嫌悪い……』
有里朱が脅えたように呟く。明らかに写真を見て気分を損ねたようだ。だが、それを俺らの前でぶちまけないということは、秘密を隠し持っているということだろう。
「何か知ってるな……」
それも昔話を穏やかにできるような普通の事じゃないだろう。いったい何があったのか……。
『どうしよう。写真持ってかれちゃった』
「まあ、スマホで撮影しておいたし、大した問題じゃない。けど、あの分だと何かを隠そうとしている」
『ごめんなさい……』
「おまえが謝る必要はないだろ」
『そうだけど……何かわかるかもしれなかったのに』
「そのことは優先順位が低いから、大した事じゃないよ」
**
写真の件は一旦保留。
それよりも目の前のことへと集中する。佐倉先輩やめぐみ先輩の協力もあって、松戸美園を追い詰める計画は順調に進んでいた。
こちら側の味方を削ぐという彼女の計画を逆に利用し、罠を張って松戸の配下となった者を次々救出するという作戦を遂行していく。
結果的に、松戸の校内での仲間はほとんどいなくなった。休み時間も昼休みもほとんど一人で寂しそうにぽつんといるだけだ。多くの取り巻きを作って闊歩していた彼女からは考えられないほど、悲壮に満ちた存在に落ちぶれていた。
誰一人として彼女に話しかけないだけでなく、陰口を叩かれ
かつての有里朱のような立場に堕ちていた。
松戸美園にとっては二度目の屈辱であるはずだ。
これで猛省してくれるのなら楽でいいのだが、そうはいかないだろう。
『これでおとなしくしてくれるかな?』
「だといいけど、おとなしいのは校内だけみたいだからね」
『そうみたいだね。地元のヤンキーさんたちと遊び回ってるみたいだし』
「ヤンキーにさん付けはやめなさい。せめて
『どきゅん?』
やっぱり一般人にはこの呼び方は浸透していないんだろうな……。
「まあ、いいや。とりあえずスパイもいるし動向は把握できるから問題はないよ」
スパイというのは、前に俺たちを拉致しようとしたDQNの一人だ。シュールストレミング液で撃退したあと、そのリーダーを懐柔した。いや、脅迫だったかな。
松戸美園の動きを俺たちへ報告しろと指示してある。このおかげで、校外での彼女の行動が逐一LINFに送られてくるのだ。
だから彼女が、有里朱を再び拉致しようと計画していることも、すでに俺たちには筒抜けなのであった。そのおかげで、あとは反攻作戦の実行を待つのみである。
さらにプレザンスさんからは松戸一族の情報が集まりつつある。といっても、肝心の『警察と繋がっているのではないか?』という情報だけは裏が取れないらしい。
ゆえに警察に全面的に頼るという方法はリスクが高いので却下した。万が一の可能性を考えてだ。なるべく警察沙汰にならない方向へと持って行く。
反攻作戦のプランはいくつか用意し、そのほとんどは合法的に退場してもらう方法だ。
短絡的に復讐で相手を殺すのは、現実であろうがフィクションであろうが好きではない。なぜなら、死は懲罰にはならないからだ。
かつて俺が自殺しようとした時に感じたように、死は逃げ場でしかない。復讐する相手をみすみす逃がしてしまっていいわけがないだろう。
そもそもここは異世界などとは違い、法と秩序に守られた現代社会なのである。わざわざこちらがリスクを犯すのは得策ではない。
だから徹底的に追い詰め、そして逃がさない。奴が『いじめ』という行動をとることを完全に封じる。これが今回の作戦の最終目的でもあった。
松戸美園の性格は、生半可な脅迫で矯正できるものではない。今までのいじめっ子のような甘い対応は、逆にこちらが不利となる。だから、やるなら徹底的に封じるのだ。
ピコンと、スマホにLINFのメッセージ通知が来る。相手は例のDQNだが、定時連絡ではなく拉致計画の重要な情報だった。
@YAGIRI KING【拉致は2/14から16にかけての放課後に行う予定らしいです】
@YAGIRI KING【お気を付けて】
@アリス【ありがと】
@アリス【例の件もよろしく】
『YAGIRI KING』ことDQNにそう返すと、今度はLINFの互恵グループにメッセージを送る。
@アリス【2/14の放課後にDQH実行】
@アリス【各自準備をよろしく】
DQHは反攻作戦のコードネームでもある。Destroy the Queen of Heartsの略称でもあった。
今日は十二日なので、二日あればこちら側の準備も整うだろう。といっても、面倒な作業はほとんど俺なんだけどね。
少し前に互恵メンバーには作戦概要は伝えてあった。文芸部のかなめとナナリーとミドリー以外にも、花見川先輩にも手伝ってもらうことにしている。唯一アクティブに行動できる人物なので、今回の作戦にはかなり重要な役割を担ってくれる。
そして相手側の決行が三日間なのは、拉致しやすい状況を作るためだと思われる。奴らにまだ心の余裕がある初日に決行するのがベストだ。最終日になると松戸の周りの奴らが焦り始めて暴走する可能性もあるのだ。下手な動きをされないためにも、相手に「ちょろい」と思わせることが肝心である。
『だいじょうぶかな? ドキドキしてきたよ』
その声とともに有里朱の緊張が伝わってくる。
「これで本当に最後だ。うまく行けばこちらに被害がないまま、松戸美園を完全に封じることができる。まあ、少しでも被害が出そうであれば、強硬手段をとって相手側の被害が大きくなるだけなんだけどね」
『どっちにしろ松戸さんに勝ち目はないんだ』
自分と仲間達の安全が最優先のため、それなりの保険は考えてある。
「ああ。ただ、一つだけ確かめたいこともあるから、あんまり手荒な真似はしたくないけどね」
『確かめたいことって?』
「例の中学での自殺の件だよ」
『そういえばプレザンスさんからのメールでも決定的な証拠がないって書いてたね。でも、ほとんど確定じゃないの?』
「確定として動くつもりだけど、真実は本人の口から吐いてもらうのが一番だ。そのためのネタもたくさん用意しているからな」
**
「えー、今日部活出られないの?」
帰り際にかなめと会話をして、打ち合わせどおりに演技を開始する。やや大げさに、周りに声が聞こえるようにだ。
「うん、ごめんね。今日、用事があってさ」
「だったら、しょうがないね」
視界の片隅で、一人の生徒がこちらを覗っている。本来ならばその場で連絡をとるつもりだったろうが、スマホ禁止となった今学期からは放課後にならないと学校側から返してもらえない。
俺たちの会話が終わるや否や、その女生徒は廊下へと駆け出していく。
実は松戸の配下を一人だけ泳がしておいたのだ。彼女は有里朱の様子を報告するためだけに配下にさせられた一人であることは把握していた。脅されたままでかわいそうな存在ではあるが、どのみち松戸美園を封じれば彼女は解放されるのだから問題はないだろう。
「うまく引っかかったみたいだね」
かなめがほっと吐息をつく。
「これで松戸美園は拉致計画を実行する。だから、あとは予定通りお願いね」
「うん。けど、ちょっと心配」
「心配?」
「あっちゃん一人を危険な目に合わせることになるし」
直接身の危険が降りかかるのは有里朱だけだからな。だからといって、他の子たちに代わりはさせられない。
「大丈夫だよ」
俺は真剣な目で彼女を見る。
「あなたは今、あっちゃんじゃなくてロリーナさんなのよね?」
さすがに声を潜めるかなめ。多重人格設定は内緒にしているからなぁ。
「ええ、そうよ」
「あっちゃんを頼んだわよ。何かあったら、あなたを一生恨むからね」
「わかってる」
かなめに対して「任せておけ!」という意味で微笑みを返した。
「さてと」と独り言を零しながら、耳の中に超小型イヤホンマイクを押し込む。これは服に縫い込んだタブレットとBluetoothで繋がっている。タブレットは外部をモニターしながら、部室にあるPCへと映像と音声を送り続けていた。いわゆるネット生配信の原理を使っている。
これはリアルタイムで動画などをインターネット上に公開する仕組みだ。現在はネット上とはいえ、とある動画サイトの限定生放送枠なので一般人には見られない状態だ。設定一つで全世界への公開は可能である。
とはいえ、今回は撮影自体が目的ではないので、最悪バレてもなんとかなる作戦だ。
「ミドリー聞こえる?」
―「うん。感度は良好だよ。映像もモニターできてる」
「花見川先輩、聞こえますか?」
―「こちらもオッケーよ。配置についたわ」
「ナナリー。ミドリーへのバックアップと花見川先輩へのナビをよろしく」
―「了解。アリス、気をつけてね」
「うん、じゃあ行ってくるね!」
俺は教室を出て下駄箱へと向かった。