第21話 身体の行方 ~ Looking-Glass II

文字数 6,501文字


 いつの間にか眠っていた。目が覚めると同時に『おはようございます』と有里朱の声が聞こえる。

「ああ、おはよう」
『少しは眠れたようですね』
「悪いな、不眠に付き合わせてしまって。どういう感じなんだ? 眠たいのに眠れない気分は」
『別に眠いわけではありませんでした。わたしも気になる事があって、それをずっと考えていたんです』
「そうか、でもゴメン。謝っておくよ」

 起き上がるとパジャマのままキッチンへ行く。

 すると、リビングには母親が眠たそうな顔で朝食を摂っていた。今日は仕事じゃないようだ。服装は上下スウェットだった。

「おはよう、有里朱」
「おはよう」

 眠そうな顔で冷凍庫からパンを取り出そう……と思ったらなかった。

「粉残ってるからホットケーキを作って」

 リビングにいる母親からそう指示を出される。なるほど、台所にはゴムで口が締められた使いかけのホットケーキミックスの袋があった。

 これくらいなら俺にも作れる。

 俺は裏ワザを思い出し、牛乳で溶いたミックス粉の中に、マヨネーズとヨーグルトを入れる。有里朱は「なんですかそれ?」と不満げな声を上げていたが、出来上がったホットケーキの尋常でない膨らみに驚く。

『うわぁ、ふかふか。すごいです。孝允さん!』
「焼き上がるまでは言葉がトゲトゲしかったけどな」
『だって、いきなりマヨネーズとか入れ出すから……』
「こういう裏ワザがあるんだよ」
『酸っぱくならないんですか?』
「大量に入れてるわけじゃないし、これくらいなら焼けば酸味は消えるよ」

 俺はふっくらホットケーキを皿に盛り、マグカップに牛乳を入れてトレーに載せて、リビングへと向かう。

「あんた、酷い顔してるね。寝不足?」

 そんな風に母親に突っ込まれた。たしかに昨日眠れなかったのは事実だ。

「うん、ちょっとね」

 あまり喋るとボロが出るのでなるべく黙っておこう。

 それから黙々と食べ、母親が喋る世間話に適当に相づちを打った。休みの日なら、けっこう喋るんだな。この人。

『けど、機嫌悪いとわたしに八つ当たりするから気をつけてね』

 なるほど、これでいじめられてたら八方ふさがりだな。追い詰められるのも解る気がする。

「ごちそうさま」

 そう言って食器を片付けると、部屋へと戻る。今日はお出かけなので着替えないといけない。

 適当に選んだ地味目のブラウスにジーンズを着て、天気予報を確認しつつピーコートを羽織る。家を出ると駅までは自転車で向かい、そこからは武蔵野線に乗った。

 スマホで路線を調べ、舞浜駅ではなく浦安駅までの最短コースを見る。
 結果は西船橋での地下鉄への乗り換え。到着には約一時間かかる。

『ねえ、浦安ってどんなとこ』
「そうだな。浦安駅の方は舞浜駅と違って、下町っぽい雰囲気かな。もともと漁師町だし」
『そうなんだ。わたしずっと浦和だったから、あんまり海とか行ったことないんだよね』
「海っていっても浦安は江戸川河口と東京湾だからな、あんまり綺麗じゃないぞ」
『家はどこなの? 結構歩く?』
「富士実の方だからな、歩いて二十分以上かな。舞浜駅と浦安駅の中間あたりかな。バスで行けなくもないけど、歩いて行っていいか?」
『景色が見たいんだね。懐かしいんでしょ?』
「ああ、たった半月ほど前の事だというのに、ずっと昔のように思える」

 そんなことを有里朱と話す。子供の頃の話もしてくれと言われたので、暇をつぶすために恥ずかしくない程度のエピソードを語った。

 そして、家に着く。これといって特徴の無い木造二階建ての一軒家。「三十にもなって実家住みかよ」とよく言われるが、長男なんだから当たり前なんだがな。

 日曜の今の時間なら、親もいるはずだ。出かけてなければ妹もいると思う。

 さて、どうやって話そうか。プランは二つある。

『家には家族がいるんだよね?』
「ああ。有里朱の姿を借りるわけだからな、あまり変なことはできない」
『何か考えはあるの?』
「一つはネットの知り合いで、急に連絡が取れなくなったので心配して来たという理由。もう一つは、届け物をしに来た。知り合いの知り合いから本人に渡してくれと言われたと」

 俺はダミーのUSBメモリを取り出す。中は適当に表計算ソフトで作ったデータが入っている。

『どっちでもいいんじゃないの?』
「前者だと、最悪俺のカノジョだと勘違いされる」
『か、かのじょ?!』
「もともと俺はあんまり女っ気がないからな。女の子が訪ねてくることなんてまったくないんだ。変に勘ぐられるかもしれん」
『そ、それは困るなぁ……』

 微妙に傷つくが仕方が無い。

「後者の場合は、『預かっておく』とだけ言われたら終了だ。俺自身がどうなっているかは話さないかもしれない。まったくの赤の他人というわけだからな」
『そ……それだと、ここに来た意味がないよ』
「どうすりゃいいと思う?」
『……』

 有里朱は黙りきってしまう。他にいい案があればそれに乗りたいのだが、なかなか良い考えが思い浮かばない。

「出直すか?」
『でも……せっかく来たんだから』

 俺は時計を見る。もう昼の十二時を過ぎていた。

「お昼食べるか。その間に考えよう」
『いいの? でも、ここ住宅地みたいだからお店は駅に戻らないとないんじゃない?』
「いや、近くに安くて早くて美味い店がある」


**


『ここ?』
「ここだけど」

 と、俺は牛めし屋の前にいる。黄色をベースにオレンジ色の丸とその中に小さな青と黄色の丸が描かれた看板が特徴的だ。

 有里朱のテンションが急激に落ちていったような気がした。もはや、そういう心の機微もわかるのか。

「牛丼きらいじゃないだろ?」
『嫌いじゃないけどさ』

 それを確認して、店内へと入る。

 食券販売機の前に立ち、メニューに悩む。少しがっつり行きたい気分ではあるな。

 そういって「ネギたっぷりプレミアム旨辛ネギたま牛丼」のボタンを押そうとしたところで、有里朱に『ダメダメダメダメ! 人に会うんでしょ。少しは考えた方がいいよ』と怒られる。

 仕方がないので牛丼の大盛りを頼もうとしたところで、再び『めっ!』と叱られる。

「並ということ?」
『うん、並で』

 しぶしぶ【牛丼 並】発券ボタンを押す。

「じゃあ、追加でハンバーグカレーをポチッとな」

 合計一千二百キロカロリーくらいか。まあ、こんなもんか。

『た、体重が……』


**


 ふぅー食った食った、と店を出る。あまりの食いっぷりに店員も驚いていた。

「なぁ、有里朱。気にしすぎだぞ。おまえの体重は五十キロちょうどだろ。身長が百五十五だから、適性体重より三キロくらい少ないだけだぞ」
『けど、五十キロの壁って大きいのよ。四十キロ台になるために頑張ってたのに』
「痩せすぎはいかんって。身体鍛えてやるから、その分体脂肪落とせるし、それで納得しろって」
『けど……』
「意味のないこだわりは死を招くぞ」
『死?』
「体力ないだろ? いざという時にあれはヤバイ。ベースになる身体を作って、基礎体力を上げないと。おまえはまだ発育中の子供なんだから」
『でも、女の子って五十キロだと重いように感じるんだよね。そっから一グラムしか少なくなくても四十キロ台なら安心するんだよ』
「それはもう病気に近いな。BMIの計算方法は知ってるんだろ?」
『いちおう』
「五十キロでも適正範囲で問題ないって理解できるだろ」
『そうだけど……』
「同調圧力に近いよな。正しいとか正しくないとか関係なくて、誰かが言い出したことをみんなで守ろうとする。たった一グラムでもオーバーしたらそれは許されないことだって……どっかで聞いた話だと思わないか?」
『それは……』
「まあ俺がこんなことで説教してもしゃーない。俺はおまえに情報の使い方を教え込むから、そこから自分で考えろ」
『……はい』

 元気のない返事だった。とはいえ、これから俺の家に行くってのに、有里朱の気分を害するような事を言うのはマイナスだったか。

「有里朱。悪いとは思ってるよ。でも、おまえが危ない目に遭うことだけは避けさせたいんだ。わかってくれ」
『うん、わたしもごめん。孝允さん、すごいわたしのこと考えてくれてるんだよね。だからいろいろ注意してくれるんだよね』

 本来ならそれは親がやることだ。だが、あの母親は少し子育てを放棄しているような気もする。

 身体を間借りしてるから、ついつい自分の事のよう口を出してしまったが、俺たちは本来、接点なんてなかったんだ。あのまま有里朱が自殺していたとしても、俺は知らずに平気で生きていたと思う。

 神がいるとしたら、何をさせたいのか?

 いや、考えるだけ無駄だ。地球上の生物が天文学的な確率で生まれたのと同じで、俺の意識が彼女の身体に宿ったのも、何かとてつもないほどの偶然なんだ。

 偶然じゃないとしたら、あの日、死にそうな少女に誓った「代わりに戦う」ということだけだ。

 今、それは半ば叶おうとしている。だったら、今度は彼女が一人でも戦えるように導いてやるべきじゃないのか?

 力を持たぬ者に「戦え」というのは残酷なことだが、同時に力を与えてやれば問題はない。

 まあ、そのためにも俺は俺自身のことをもっと知らなければいけないんだよな。

「俺の家に行くぞ。さっきのプラン。どっちでいく? 後者のプランでダメだったらまた別の方法を考えるよ」

 そう言って歩き出す。有里朱に無理強いはしたくない。俺の件に関しては、それほど緊急性はないのだから。

『最初のでいいよ。わたしとあなたは知り合い。それは嘘じゃないもの。それにあなたはわたしの事を心配してくれるように、わたしもあなたの事が心配なの』

 冷え切っていた心が温められる。彼女の言っていることは嘘ではないと理解出来る。それはわずかに共有した心から伝わってくるのだ。

「いいのか?」
『たいしたことじゃないでしょ。誤解されたら恥ずかしいけど……いいよ』
「わかった。プランAでいこう」


 俺は自分の家の前に立つ、大きく深呼吸をして心を落ち着かせる。そして呼び鈴を鳴らした。

 数十秒で玄関の扉が開く。五十代後半の初老の婦人。懐かしい顔だ。俺の母親でもある。

「どちらさん? あら、学生さんかしら」
「はじめまして、わたし美浜有里朱と言います。千葉孝允さんのお宅はこちらでよろしいのですよね?」

 母の顔が驚いたように目を丸くする。

「あらまあ、孝允の知り合い?」
「ええ、ネットでお世話になったものです。孝允さんと急に連絡がとれなくなったもので、ちょっと心配になりまして」
「あらそう、わざわざ来ていただいて申し訳ないわね」
「いえ、どうせ暇でしたから」
「孝允はね……今、入院しているのよ」

 入院? やはり何かあったのか?

「どこの病院ですか? できればお見舞いに」
「ごめんなさい。ちょっとケガの具合が芳しくなくてね。まだ意識が戻らないのよ」
「え?」

 その手の事は予想していたとはいえ、ショックは大きかった。

「まだ面会謝絶がとれなくて、家族以外は会うことができないの」
「何があったんですか?」

 意識が戻らないほどのケガだと? まあ、意識があったらあったで、俺の存在に矛盾が生じるが。

「あの子、先月の十四日から珍しく帰ってこなくてね。まあ仕事が忙しいのかなって、放っておいたら十五日に事故に巻き込まれたって警察から電話があったの」
「事故?」
「大型のトラックに轢かれたとかで、私としても心臓が止まるかと思ったわ。幸い命は取り留めたものの意識不明の状態がずっと続いている。お医者さまは、様態は安定してるとはおっしゃってるけど」

 目眩がする。ふらりと身体が揺れる。

「大丈夫? あなた?」
「え……ええ」

 下半身に力を入れてなんとか踏ん張る。

 そして鈍った頭を無理矢理フル回転させ、情報の分析。十三日の金曜日に酒を飲んだことは覚えている。会社の打ち上げだ。プロジェクトが一段落したから、開発チームのメンバーと居酒屋へ行ったはず。

 でも、事故を起こしたのは十五日だと? やはり十四日がまるまる一日記憶がない。どういうことだ?

「ごめんなさいね。せっかく来てくれたのに。連絡先を教えてくれたら、あの子が目覚めたときにお知らせするわよ」

 それは最重要な事である。もし、千葉孝允が目覚めて俺がまだ有里朱の中にいるのなら、俺自身の存在を疑わなくてはならないからな。

「ありがとうございます。お願いします」

 そう言ってスマホを取り出し、端末情報から電話番号を参照して手帳に書き込む。と、そのページを破って母親に渡した。

「たしかにお預かりしたわ。今日はありがとう。あの子の事を訪ねてくれて」

 その言葉で俺は、胸が締め付けられるような思いになる。

 母親が目の前にいるのに、何も語ることができない。息子の無事を願う母に何も声をかけてあげられないのだ。喩えようもない感情で、とうとう言葉が出てこなかった。

 俺はなんとか頭だけ下げると、そのまま家を後にする。

 駅までの帰路。頭の中は情報の断片が渦巻いて考えがまったくまとまらない。

 確かに俺はこの世界に存在する。けど、死にかけじゃねえか。

 大型トラックに轢かれたって? それ、いつ死んでもおかしくない状態だろ!

『孝允さん……大丈夫ですか?』
「ああ、悪い。ちょっと取り乱してる」

 かろうじて生きてる状態なのか? だから有里朱の身体を間借りしているってわけか?
 もし肉体が死んだらどうなるんだ? 俺はこのまま有里朱の身体で過ごすのか?

 いや……違う。死んだらこの意識も消える。

 そもそも人間の脳は揮発性メモリだ。電源=生命活動がなければ情報を保持できない。

 俺の意識は記憶を元に活動しているだけだ。肉体というハードウェアを失えば、情報は遮断されて意識は霧散する。

 もし霊体があるとしても、肉体がなければ記憶など保持できない。もし、すべての記憶が消えてしまうのなら、俺という意識も消失する。そんなもの俺自身といえるのか?

 そもそも霊体なんてインチキ臭い代物が記憶を保持できるのなら、脳の損傷による記憶の欠落などありえないのだからな。

 だからこそ、俺は幽霊を信じないし、死後の世界すら夢物語だと馬鹿にするのだ。

 むろん、有里朱の身体を間借りしているこの状態すら異常だと思う。未だに、夢の中ではないかという可能性も捨てきれていない。

『どうしたんですか? 孝允さんの感情の乱れが普通じゃないですよ。ダメですよ、わたしがいることを忘れないで下さい。わたしはあなたの事も心配なんですから』

 心がぽっと温かくなる。人間、一人じゃないってことは大切なことだ。

「俺はさ、やっぱり強くないんだよ」

 弱音を吐いてしまう。みっともないったらありゃしない。三十男が女子高生に向かってだぜ。

『そんなことないですよ。あんなに強かったじゃないですか。わたしが羨ましくなるくらい』

 これ以上はこの子に頼るわけにはいかない。処理できない情報は保留にする。それで立て直せばいい。

「悪かったよ。取り乱してさ」
『いえ、ショックなのもわかります。事故に遭っていたなんて』
「でもまあ、ここが異世界じゃなくてよかったよ。転生していたわけでもなかった」

 無理矢理戯けてみせる。そうでもしなきゃ平常心を保てない。

『異世界にこだわりますね』
「異世界転生はオタクのロマンだからな」

 転生だったらどんなによかったか。まあ、そもそも記憶を持って転生なんて、論理的に考えればあり得ない話だ。

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