第三十六話 完全勝利

文字数 1,826文字

 手にしていたはずの手帳を閉じ、腕を組んだ社長の目は怒りで吊り上がって見えた。これまでの話のすべてに納得がいかない――そんな抑えきれない憤りを彼は言葉に込め始めた。

「あなたは不満だったかもしれないが、こちらは現場で働くのが妥当だと思って判断したんですよ。そんなにうちの条件(給与等)が悪かったと言いたいのか」
「働きやすいように働いてくれればいいと言いましたよね?」
「そんなの社内ルールの範囲内でやるのが当たり前の話でしょう! こちらはきちんと説明しているんですから!」
 
 彼は鼻息荒く私を睨みつけた。
 私は声のトーンを抑えつつ、対立する言葉を投げかけた。

「説明はされていませんよ。妥協案も回答がされないまま放置されましたよね。私には二人の上司がいたにもかかわらず、現場ばかりに相談して、ケアマネの上司のほうにはなにひとつ相談されていなかったじゃないですか。それについては社長自身が先日おっしゃっていましたよね」

 パーテーションで区切られた奥のほうから社員さんたちにまで聞こえるほどの大きな声できっぱりと告げた。
 聞かれてもかまやしないと思ったのだ。むしろ、しっかり聞いておけという気持ちだった。
 私も社長も、もはや抑えきれないほどに怒りが膨らんでいた。
 視線はぶつかって火花が散る。
 しばしの沈黙のあと、穏やかな声が私たちの間の壁にすうっと割って入った。
 私の電話をとってくれたユニオンのHさんだった。

 私はここで隠し持っていた第一の刃を抜いた。明らかに社長はひるんだ。『国税局』という言葉に驚いたのだろう。私が確認した国税局職員さんの名前を確認しており、名前を告げても構わない旨も承知していると言ったことも効果を奏したに違いない。
 一気にトーンダウンした社長へ私は問いかけた。

「社長は健康保険証の件で私に言ったことを覚えていらっしゃいますか?」
「いいえ、覚えてないです」

 やはり、だ。言われているほうは覚えているが言った側は覚えていないということはよくある話だ。なんの悪意も抱かず、ただポンッと言葉を放り投げただけにすぎなかったのだろう。言った側には『たかが』と思われるのでも、相手の受け取り方次第で大きな傷をつけることになることを彼は考えなかったのだ。
 介護事業所の事業主である。現場に赴き、実際にケアもしている。それにも関わらずコミュニケーションのなんたるかも考えずに行動したということに、私はあらためてがっかりした。そのことをきちんと告げる。

「総合病院の予約受診だったのに、時間を変えるしかないねと笑ったんです。急遽ねじ込んだ受診で変えられるわけがないのに、保険証が届かなくて自費受診を余儀なくされたのに笑われて傷つきました」

 社長は押し黙った。反論することもせずに私の話をじっと聞いている。

「母子家庭だっていうのは履歴書を見てわかっていたはずです。にもかかわらず、こちらからお願いしてから扶養家族分の保険証の申請をしましたよね? 健康保険証の申請は採用して五日以内です。そういう労務のずさんさや心無い言葉の積み重ねが退職理由ですよ」
「日々が忙しくて、わかってはいたけど後回しになっていました。ずさんさは常習化されていたことは認めます」

 社長はうなだれながら、力なく答えた。もう一押しだった。


 二か月分の給与明細と令和二年度の源泉徴収票、未払金もきっちりもらい受けて私たちは会社を出た。
 外に出ると書記長さんに「言いたいことはすべて言えましたか?」と尋ねられた。

「はい! とてもスッキリしました」
「完全勝利でしたね! あんなにしっかり言えて、本当に素晴らしいと思います」

 実際のところ、社長の剣幕に圧倒されて言えなくなる人も多いらしい。
 しかし私はきっちり根拠を持って社長に詰め寄った。それを二人はほめてくれたのだ。

「まあ、それでも彼はまだいい青年だったということでしょうけど」

 世の中にはどう訴えても自分の非を認めない事業主たちがたくさんいるようだ。その中でもまだ私はやりやすい相手だったのかもしれない。それに抜き打ちという形もよかった。相手に準備の暇を与えず、しっかり外堀を埋めてから行動する――その大事さを今回のことで噛みしめることになった。

「本当にありがとうございました」

 ユニオンの二人に別れを告げて私は帰路につく。アクセルペダルを踏む足はずいぶんと軽やかなものに変化していた。
 しかし、私の人生はそう簡単に流れていかないのだった。


 




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