第一話 雇用保険入っていませんよ?

文字数 1,610文字

「だからね、ひどい会社だったんです。お昼休み返上で働かされて、やっと休憩できたと思ったら午後三時過ぎに15分くらい。トイレ行くくらいしかできませんよ。まともに休憩時間取れるなんてめったになくて、それが当たり前だったんです。人格否定されるようなパワハラだってありましたよ。だから働き方を変えたいって相談したら、私の言うことは全部無視されたんですよ? そんな会社じゃ契約更新できないじゃないですか」
「でも結局、それって『自己都合による退社』なんですよね、残念ながら」

 雇用保険申請担当の男性職員さんは私の目も見ないで私の訴えをきっぱりと退けた。年齢は三十歳くらい。指輪をしていないところを見ると独身っぽい。そんな中堅に差し掛かった職員さんは、こちらがどんなに必死に話をしても慣れているらしく眉ひとつ動かしもせずに言い切ったのだ。
 二時間待った。やっと雇用保険の申請までたどり着いた(正確に言うと、ハローワークの受付システムを理解していなくて、書類を抱えたままでいたら、まったく名前を呼ばれずに聞き取り調査されるまで二時間じっと待ち続けてしまったのが原因なのだが)以上はなんとしても失業保険の受給資格をもぎ取って帰らねばならないと思っての訴えである。
 しかし予想以上に相手は手ごわい。
 それならば――とさらに私は自分の実情を懸命に訴えかける作戦に出た。

「私、母子家庭なんですっ。高校生と今度中学生になる子がいるんですっ。失業保険もらえないと本当に困るんですっ」
「理由はわかりました。でも失業保険は別に申請はできますからね。もらえないということではないですよ」

 相変わらず淡々とした口調で答えた。

――そりゃ、わかっているっつーの。

 ロボットを相手に話している気分になる。失業保険がもらえることくらいはわかっている。しかし、ここで重要なのは『自己都合による退社』なのか否なのか、なのだ。『自己都合退社』の場合はすぐに給付されないで、三か月先になる。それじゃ困るんだ。心もとない貯蓄を食いつぶして三か月やり過ごすことを考えただけで身震いがする。
 だから、どうしてもすぐに支給してもらわないと困る。
 それにしたって、こんながっかりした気持ちになるのはここ最近では二回目だ。労働基準局のカウンターで必死に実情を訴えたのに「法には触れてないからなにもできないわね」とあっさり言いきった担当の女性職員さんを思い出す。

――ちぇっ。わかっていたけど、やっぱり公務員に『感情に訴える作戦』は通じないわ。

 きっと私みたいな『義理人情でなんとかしてくれよ』と言い募る相手の応対には慣れているんだろう。そしてマニュアルもあるに違いない。同情も共感もしてはくれない。そんなことしていたら後々の業務に差し支えるからやりたくないよっていうのがありありとうかがえて、思わず悪態をつきそうになるのを、拳を握りしめてやりすごす。
 じっと彼からの一言を待つ私。彼はパソコンの画面を能面みたいな顔で見つめている。
 この人でも笑うことなんかあるのかな。っていうか、これが民間の窓口だったら笑顔で対応しろって絶対に言われるぞ。そんなしかめっ面してるとクレームくるんだぞ。ボーナス査定にひっかかるんだぞ。もうちょっと笑えよ、怖えよ。
 なんて心の中で毒づきながらしばらく待っていると、カチカチとマウスをクリックしていた彼が私のほうへすうっと視線を動かした。初めて目があった。彼は「あのですね」と言った。

「雇用保険、入ってないみたいです」
「は?」
「検索したんですけどね、出てこないんですよね、紫藤さんのだけ。他の人のはちゃんと入っているみたいなのに。あなた、本当に雇用保険の加入条件ちゃんと満たしてました?」
「えっ? はっ?」

――なんじゃ、そりゃあああああっ!

 2020年1月15日(水)。
 こんな衝撃事実と共にブラック企業との闘いは、この日から幕を開けることになったのである。





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