第38話:木下貴子さんの突然の死

文字数 3,229文字

 2009年春、犬山重臣、淑子さんと同居してる吉田夫妻と桜の名所として有名な目黒川の花見に出かけ混雑している中、きれいな写真をたくさん撮った。5月になりマイカーでドライブしながら奥多摩湖の山桜を見たがやっと暖かい季節なった。その頃、海老名の老人シェアハウスの義理の母、木下貴子さんは同年代の仲の良い女友達と花の名所を巡ったりカラオケ行ったり楽しんでると連絡が入った。

 そのため年に2、3回程度しか東京の家には帰ってこなくなった。2009年の夏、東京で過ごすことになりクーラーを効かせてWOWOWの映画を楽しんで見ていた。9月になり動き出して富士五湖、奥多摩などへドライブする事が多くなり東京近郊にも良い温泉がある事を再確認した。例えば奥多摩から更に山梨方面へ向かった小菅村にある多摩源流温泉・小菅の湯は、川のほとりの良い温泉だ。

 中央高速を下って行くと石和温泉、湯村温泉、塩山温泉など中央高速沿いだけでも20件はくだらない温泉地だ。その他、早朝、朝日を見ながら入れる、
「ほったらかしの湯」が気に入って、そこを起点として、信州、諏訪、松本、蓼科、清里へドライブをする様になり、「信州そばの新そば」も食べに行く様になった。

 そうして11月になり、やがて2010年を迎えた。2010年になりインフルエンザの流行が報道され、東京でも学級閉鎖が増えた。犬山重臣の所でも身体の弱い吉田良介さんが1月10日から39度の熱を出してインフルエンザだと診断されてリビングから一番離れた日当たりの良い部屋で1人寝るようになった。奥さんの和子さんが懸命に看病した。

 そして身体の温まるショウガ紅茶やネギの味噌汁と栄養満点の食事を作って療養を助けて1月13日には薬を飲んでせいもあってか37度台まで熱が下がり1月15日の朝、寝間着にびっしょりと汗をかいて平熱に戻りインフルエンザを退治したようだ。他の人も手洗い、うがい、マスクをて栄養のある食事を心がけた。その後インフルエンザは出なかった。

 しかし2月3日の寒い朝、早朝、突然、電話が鳴り取ると海老名の老人シェアハウスからで木下貴子さんが39度以上の熱を出し彼女の仲良しグループもインフルエンザにかかったようだと連絡が入り直ぐに熱の高い人を病院に連れて行くと伝えた。そこで犬山重臣、淑子さんが7時過ぎに車で海老名へ向かい9時半に厚木の病院の救急へ到着した。

 すると老人シェアハウスの人が3人いて6人全員がインフルエンザとわかり同じホーム11人中7人がインフルエンザになったと教えてくれた。特に具合が悪いのが高齢の木下貴子さんと友人の佐藤友美さんの2人でICUに入り肺炎を併発しない様に集中治療を施していると言った。もちろん面会謝絶だった。

 その後、担当した医師がきて重症の2人は何としても肺炎を起こさない様に最大限の治療をしているといい早くても7日間はICUに入院となるでしょうと話した。仕方ないので厚木に宿を取って2、3日様子を見ることにした。2010年2月5日、木下貴子さんが肺炎を併発したと連絡があり数人の医師と看護婦が慌ただしく動き回っていたので聞くと、今は、なんとも言えないと言い難しい表情をした。

 2月6日の早朝、電話で病状が悪化して危篤状態になったと連絡が入り、朝7時半に病院に着くと担当医師が残念ながら、ご臨終ですと言った。会いに行けないのですかというと、まだウイルス感染の危険性があるから、会えないと言った。10分後、インフルエンザは陰性だったので面会できますと言われた。それでもマスク、メガネ、防護服に着替えて病室へ入り面会した。

 以前お会いした、みずみずしい肌とは、ほど遠く亡くなった事を実感させられた。最終的には肺炎を併発して亡くなったと言い死亡診断書を書きますので少しお待ち下さいと言われた。ところで、ご自宅はと聞かれ東京と言うと、ご遺体を搬送する手続きを取り、明日中に搬送車が空いてれば送れますと言い連絡先を教えてくれた。

 淑子さんは母と亡くなる直前に話も出来ず、あまりも、あっけなく亡くなったためか茫然自失と言った感じて待合室の椅子に座ったままだった。その後、以前、木下公彦さんの葬儀の時にお世話になった、葬儀社の名刺を持っていたので、電話をかけると自宅に戻られるのはいつですかと聞くので明日には戻れると言うと、わかりました、担当者を送りますからと言ってくれた。

 犬山重臣は搬送車の手配や病院への医療費、その他、多くの書類を忙しそうに書いた。その後、老人シェアハウスに電話し現在の状態を話した。その後搬送車は明日なら手配できて東京へ運べることになった。その他の書類も全て書き終えると昼過ぎになっていて病院の食堂へ行き食事しようと淑子さんに言うと、とぼとぼと、犬山重臣についてきて何を注文すると言っても今はいらないと言いオレンジ・ジュースだけ頼んだ。

 犬山重臣はランチ定食を食べてから、また老人シェアハウスに電話を入れると、あまり慌てなくても構いませんと言ってくれ葬式が終わってから、こちらに来られて手続きを取っていただければ結構ですと優しく言ってくれた。そこで現在の状況と今後の予定を話した。そして淑子さんに車で家に帰ろうと言い、明日、お母さんを家まで運んでくれるように手配してあるからと告げると、首をたてに振って犬山重臣の車に乗って東京の幡ヶ谷に帰った。

 家に戻り吉田夫妻に状況を話すと、この度は本当に大変なことで、「お悔やみ申し上げます」と吉田良介と和子さんが言った。すると淑子さんが元気なく、どーもと言っただけだった。夕食を軽く食べ風呂に入り早めに床についた。翌日8時半に葬儀社の3人がきて遺体を安置する箱をどこに置きますかと聞くので、とりあえず玄関に一番近い和室に置いてもらうことにした。

 そして葬儀の日程を調べてもらった結果、葬儀は立川葬儀所、最短で2月10日の午前11時ですと言うので、それでお願いした。それでは葬儀のご案内の往復はがきをといって何枚必要ですかと言われ50枚いただいた。すると、もう1人がハンコで葬儀場所と時間を押しはじめた。その後淑子さんが親戚で近くにいる人を除いて15枚の葬儀案内の往復はがきをもらった。

 名簿があると言うので手分けし宛名書きをして投函できるようになった。その後、淑子さんが思い出した様に、ちょっと来てと犬山重臣を呼んで2人だけで一番奥の部屋の母のタンスの上部の真ん中の引出を空けて封印をした厚い封筒を取り出した。母が、もし私に何かあったら、これを見なさいと言われていたことを思い出した。

 そこには、これを見る時、多分、私は、この世にいないでしょうという書き出しで始まって、目録に書いてある財産、資産を犬山淑子に託しますと書いてあり長男には既に遺産を渡してあるので、それで財産分与は終了していますと書いてあった。その財産目録を見ると預金額が2億円と貯金通帳が3冊あった。私が亡くなった後は東京の家を処分しても改築して住み続けてもかまいません。

 ただし多額の税金を払い続けなければ住めませんので住むことが出来なければ処分するしか仕方ないでしょうと書いてあった。出来れば子孫の方々に住み続けて欲しいのが希望ですと書いてあった。その他、金や宝石、骨董、絵画、書など後で、めんどくさい事にならない様、既に換金しておきますと書いてあった。

 これを見た後、淑子さんが、これを私たちで保管したら良いのかしらと聞くので犬山重臣が、もし弟さんが見せろと言われたら見せなければならない。だから封をしておきましょうと言い、もし弟さんが葬儀に来られなければ私たちが預かる事にしましょうと言った。その後11時頃に遺体搬送車がつき遺体を安置する木の箱に入れた。すると吉田良介さんと和子さんが、ご遺体に合掌した。
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