第4話:妹が糸魚川病院へ転勤と投資開始

文字数 1,617文字

 その後、妹の畑山豊子は、新潟県立看護大学を卒業し新潟県立中央病院に就職が決まり看護婦寮に入った。その週の週末、糸魚川の実家に帰ってきた。そして、看護婦の仕事は、不規則で病院から呼び出しがあると話した。

 もし緊急呼び出しの場合も病院近くの看護婦寮に入れば良いと語った。休みの日に帰ってきますと言った。数週間が過ぎ1995年6月13日の夜、証券会社の担当者から電話でソニー株が安いから買いと言われた。価格はと聞くと終値の3800円で良いと言われ、明朝、最初に3800円で買いを2千株買いを指示した。翌日の昼、3780円で2千株を756万円で買えた。

 その結果、投資口座の残金が44万円となった。しかし、この年、7月11日から新潟県内に停滞していた梅雨前線の活動が活発化し豪雨が起きた。そのため、糸魚川を流れる姫川の被害は甚大だった。それでも不幸中の幸いか日本海側の海岸線の畑山家は、大雨にならず被害もなく済んだ。むしろ糸魚川から内陸にはいった大糸線沿いの山間部の被害が大きかった。

 家屋や人が流されたり土砂崩れの被害もあった様だ。この年の夏休み8月12日から長女の畑山豊子が、糸魚川の実家に帰って来て海で泳いだりして体を休めて8月16日、高田の病院に帰っていった。その後、特に変わりなく過ごして秋が過ぎ冬が到来し雪が降りだし12月。冬タイヤとチェーンを常備して直江津の会社に畑山親子が出かけて行き1996年となった。

 すると敏和が買ったソニー株が7千円を超えた。この年、自宅から7キロの糸魚川温泉の日帰り湯に出かけた。実に気持ちが良く景色も良いので回数券を購入して頻繁に通った。4月を迎えると今年か来年、厚生連糸魚川病院で、看護婦の募集が出たと豊子に連絡が入った。つまり新潟でも、大きな新潟市、長岡市、上越市に、看護大学を出た若くて優秀な看護婦が集まる。

 しかし、遠い糸魚川では看護婦が不足していた。そこで来年1997年4月から厚生連糸魚川病院への移動の話を豊子が承諾して転勤を決意。この話を聞いた両親は、大歓迎と豊子に電話を入れた。やがて夏休みとなり、豊子が、実家にお盆休みの3日間帰って来た。そこで糸魚川温泉に家族4人で出かけ、ゆっくり静養して昼食を楽しんだ。

 そして8月17日、早朝、畑山敏和が運転する車に父と3人で乗って豊子を県立中央病院に送り届けた。この頃、証券会社から電話でソニー株が12000円を超えたと知らせが入り大喜び。その後、1997年となった。この年も雪が降り続いた。豪雪ではなく街中の雪は1メートル足らずで地下水をくみ上げ流してるため雪は消えていく。母の繁子は、この雪の少ないのに感謝した。

 やがて少しずつ暖かくなり3月となり娘の豊子は正式に辞令をもらい1997年4月1日から厚生連糸魚川病院に勤務。同じ時に循環器・老年内科の八橋賢三と言う横浜市大出身の内科医も赴任してきた。八橋先生は、横浜市大医学部を卒業し、へき地医療を勉強するために新潟大学内科に籍を置いて新潟の山間部、津南町立病院、雪国大和病院を経て糸魚川病院赴任したと説明。

「なんで横浜のお医者さんが、こんな田舎で医者をするんだと聞くと何でも民医連と言う左翼の考えを持ち、へき地、貧しい人への医療をしたいらしいと答えた」。
「変な人だね、わざわざ都会から田舎へ来るなんて気が知れないよと話した」。
「豊子も、そうよね。私なんか、東京、横浜で仕事したい位と言い、笑った」。
 その後、豊子は、毎日、自分の買った小さい車で糸魚川病院に通勤を開始。

 夕方18時、家に帰り夕飯の支度を手伝った。休みの日は、母を乗せて車で15分の糸魚川温泉に出かけ仲良くやった。そして夏休みになり豊子が、お客さんを連れてきて良いかと母に聞くと構わないよと言われた。そこで、その男性を家に連れてきた。彼が、今年4月から豊子さんと同じ糸魚川病院に赴任した八橋賢三と言いますと自己紹介した。
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