1話:おばあちゃんの歌う唄とお宝

文字数 1,602文字

 1994年、畑山敏則は、新潟大学理工学部化学科を出てSE化学の直江津工場に勤めて26年、48歳。研究所に勤務し工場の研究所、所長として働いていた。工場での製造の効率化や合成方法の研究を続けて所長まで出世。息子の敏和も同じ、新潟大学経済学部を1994年に卒業。父と同じ、大手化学メーカーSE化学の直江津工場の経理部に入社。

 実家の糸魚川市鬼舞から父を乗せて車で40分かけSE化学の直江津工場に通い始めた。畑山家は、北前船で名を挙げた鬼舞の伊藤家の分家の一つだ。しかし、それは、昔1880年代の話であり豊かという事もなく半農半漁の生活をしている。日本海は荒れると、何日も漁に出られず地区では米と酒米を作っていた。近くには、作り酒屋が2軒の寒村。

 日本の戦国時代1600年から1650年頃、あの佐渡金山は、1603年には徳川幕府直轄の天領として佐渡奉行所が置かれ、小判の製造も行われ江戸幕府の財政を支えた。その当時、昔の輪島水軍の残党、畠山氏が、嵐の日本海を我が物顔で荒らしまわり佐渡の金塊をせしめたという。その輪島水軍が、立ち寄ったと言われるのがこの鬼舞の名前の由来となった。

 鬼舞とは、輪島水軍の船乗りたちが輪島に帰る途中、立ち寄り、この地の漁師の家を占拠し、時化がおさまるのを待つ間、酒盛りをして地元の女を引き入れて酒池肉林の宴会をして、勝者の舞として、踊っている姿を称した。地元の人たちが鬼舞と称したのが名前の由来と言われている。この地の漁師の女から生まれた子供の中や輪島水軍の末裔も移り住んだと言う。

 彼らが佐渡の金を手に入れ生活費に充て残ったのをの子孫のために埋めたと言う言い伝えもあったそうだ。それがいつしか鬼舞に輪島水軍のお宝伝説として、その後も伝わった様だ。しかし見つかった事がなく、そのうち言い伝えも忘れ去られていった。その後、北前船商人の末裔として伊藤家も繁栄したが戦後の財産税で資金、財宝は、政府に没収され豪邸も残っていない。

 しかし、子供たちの中では、父、畑山敏則の祖先が、お宝を埋めた所を見たとかいう話が出ては、消え、誰も見た事がないので、そのうちに忘れられていった。父も子供時代、多くの村人がお宝を埋めそうな所、岩の洞窟も探検して探しが小判、古銭1つ見つからなかった。祖父は、物静かで、親切で心優しく、正義感のある色男で、伊藤家の女性たちにももてた様だ。

 そのため戦後、貧しい頃、畑山家の男が、伊藤家の人に新潟大学に入る学費を工面してもらったと聞いた。その伊藤家のおばあさんは、90歳を超え、息子さんが死んだ後も生きて近くの老人ホームに入っていた。実家の孫、ひ孫もその老人ホームに行くことは少ない。たまに畑山敏則と息子の敏和と娘の豊子が行くと、喜んでくれ機嫌のよい時、昔の民謡を歌い歓迎してくれた。

 畑山敏和も幼い頃から、いくつかの歌を聞いたが、その中に1つ不思議な一説があったのをはっきりと覚えていた。「その一説とは、五霊様の鳥居の近くに鬼の墓」。もちろん鬼の墓、なんて、あるわけもなく、神社であって、お墓ではないのだ。鬼舞にある墓地は5軒、大泉寺、金剛院、光明院、実相院、光栄寺しかない。

 その後も畑山敏則と息子の敏和と娘の豊子は、暇ができると、90歳を超えた高齢の伊藤ふみさんの所へ、出かけた。そんな時、伊藤ふみさんが、急に真面目な顔になり、私も、お迎えが近い。だから、世話になった、あなたたちに、私が、良く歌っている歌の秘密を教えると言い、その歌を歌い終えると「五霊様の鳥居の近くに鬼の墓」について説明した。

「五霊神社の鳥居から5歩の所をお宝が・・・と言うと急に血の気が失せてベッドに倒れた」。
すぐに老人施設の人が来て救急車を呼んだ。10分後、救急車が来た時には、伊藤ふみさんの脈がふれなくて、ご臨終ですと先生が答えた。その5日後、1994年10月9日が葬儀と決まった。
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