第12話:新潟中越地震と山古志村の村民帰村

文字数 1,606文字

 テレビから流れるニュースでは、10月23日17時56分、新潟県中越地方を震源として発生したマグニチュード6.8、震源の深さ13キロの直下型の地震。1995年の阪神・淡路大震災、以来、当時観測史上2回目の最大震度7を記録。なお、1996年の震度改正以降、震度計によって震度7が観測されたのは、この地震が初めである。

 新潟県北魚沼郡川口町の直下を震源とした逆断層型の内陸地殻内地震で、震源直上の川口町では最大震度7を観測。特に、震源に近い山古志村は震度6強を記録し断続的な余震に襲われた。人口約2100人の村は死者5人、負傷者25人、全壊622棟の被害。地滑り329か所が発生して道路は寸断され、村は孤立。

 10月25日、山古志村は避難勧告を避難指示に切り替え、全村民はヘリコプターで長岡市内の8か所の避難所に運ばれた。当初はヘリから降りた順に避難所に入った。しかし10日後に村内にある14の集落ごとに組み直した。日頃の人間関係のつながりをくずさず、集落単位にしたことで村民に安心感が出てきた。

 村民の多くが「震災で壊滅した山古志村に戻れるのか?」と思っていた頃、当時の長島忠美村長が「帰ろう山古志へ」というキャッチフレーズを打ち出し避難所から移った仮設住宅も集落単位で入居。そこに村役場や農協の店舗、郵便局も移ってきて村民たちの帰村への思いが募ったと言う。特に、山古志村の被害が大きかった。

 その後もマグニチュード6を越える規模の大きな余震が複数回発生するなど、余震回数が多く群発地震的様相を呈したことも特徴の1つ。震災から半年後の2005年4月、山古志村は長岡市に編入合併された。これは以前から決まっていた平成の大合併だが、旧村民の「帰ろう山古志へ」という願いは不変だった。

 長岡市郊外の仮設住宅で暮らす主婦たちは、近隣の農地を借りて「畑の学校」という営農グループを立ち上げ地場野菜を生産して販売したり郷土料理を作った。「いきがい健康農園」という市民農園を作り営農も始めた人たちもいた。仮設住宅でも村で暮らしていた時の様に生活する事で帰村に向けて営農意欲を維持できた。

 仮説住宅には生活相談員がつき市街地の生活に慣れない住民を支援し精神的物質的なケアが行われた。住民と交流を重ねた生活相談員の中には後に山古志応援団として関わる人も多かった。また山古志の復興計画が、住民主導のもとでまとめられた。旧山古志村は震災で壊滅的な打撃を受けたため、新たな土地利用計画を策定し、それに基づいてインフラを整備。

 基本は集落単位で帰村し以前の暮らしを取り戻す事だ。こうして震災の1年後、いくつかの集落が第1次帰村を果たしが雪崩などの雪害を避けるため冬は仮設住宅で暮らした。翌年もいくつかの集落が第2次帰村。震災から10年後の旧山古志村。棚田など震災前の姿を取り戻した。震災から38か月後の2007年12月、旧山古志村で「帰村式」が行われた。

 地震発生時の7割にとどまるが全集落の約1400人が帰村。全村帰村を果たした山古志で伝統の闘牛「牛の角突き」が復活し年間2万人を超える観客を集めている。山古志が原産地とされる錦鯉は若い後継者が世界に飛び出し海外からバイヤーが訪れる。

 新たにアルパカ牧場が開設されて観光拠点が増えた。アルパカ牧場を経営する青木勝さんは、村役場で働き、長岡市に編入後は所長として復興計画の策定にも携わりび米国から寄贈されたアルパカを飼育しに定年を迎えアルパカ牧場を経営する事なった。

「彼は、全村帰村を果たしたが12年し亡くなる人も多く、今、山古志村の人口は千人を切った」。
「山村の高齢化と過疎化の結果ですが、復興計画で掲げたのは、伝統的な山の暮らしの再生」。
「それは果たせた思いますが、まだ課題は多いと青木さんが語った」。
「山古志村は、この間、観光に力を入れ、山の暮らしに接したいと訪れる観光客が増えた」。
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