第25話:夏の夫婦で北海道旅行

文字数 1,688文字

 敏和の親たちは、今年も冬場、避寒のため横浜みなとみらいへ、それぞれ訪問してくれ、今年、中学生になる優子を見て、その成長を喜んでくれた。その後、優良老人ホームの理事長のSJ先生から電話が入り、畑山敏和が一人で訪問した。私も今年87歳になり、自分自身の体力と知力の低下を考えて、私の設立したNPOを次世代の若い人に引き継ぐつもりですと話した。

 この話に対して、特に何も言えず、長い間、本当に、ご苦労様でしたと言うと、もし20年前に、あなたに会っていれば一緒に良い仕事できなのに、ごめんなさいねと言った。2015年4月28日朝、証券会社からの電話でファナック株の気配値が28500円となり売りと言われ、全株成り行き売りを指示。すぐに売れ、税引き後利益9.4億円となろ残金合計12.7億円となった。

 やがて夏が訪れ、暑い夏、今年は、中学の2人が高校受験のための進学塾に入り夏期講習にでかけた。そこで、智一と奥さんの2人で北海道旅行へ8月7日、月曜7時過ぎに高速バスで羽田に向かった。羽田発10時の函館行きの飛行機に乗り込み11時20分に函館空港に到着。昼前に函館駅近くのホテルにチェックインして函館朝市の中の食堂へ入り海鮮丼を食べた。

もちろん新鮮な海の幸で、味は最高。次、函館港へ行き函館市青函連絡船記念館摩周丸を見学して、さらに足を延ばして函館レンガ倉庫街を見学した。横浜の赤レンガ倉庫を見慣れていたが、そこの倉庫の多さには驚いた。観光客が大挙してそのレンガ倉庫を改装した商店に次々と吸い込まれていった。ホテルに帰ろうとすると箱館高田屋嘉兵衛資料館が目に入った。

 すると思った通り北前船で財を成した豪商・高田屋嘉兵衛の資料館だった。中に入ると高田屋の紋章の入った半被と北前船のミニチュアが置いてあった。そして高田屋嘉兵衛の生い立ちが書いてあり淡路島で6人兄弟の長男として生まれた。22歳の時に船乗りとなるため兵庫「現在の神戸市」に出る。灘の酒を運ぶ樽廻船の水夫、沖船頭として勤めた。

 その後27歳の頃、熊野灘沖での鰹網漁業で得た巨利を元手に北前船への参入を決意。当時最大の帆船・辰悦丸「1500石積、約230トン」を建造し、船持船頭として独立。辰悦丸で初めて箱館に来航したのは1796年。当時、近江商人が食い込む松前・江差が栄えていたのに対し箱館は人口わずか3千人の寒村。嘉兵衛が箱館を本拠地としたのは箱館港の安全性を重視ためだった。

 1799年幕府は、嘉兵衛に択捉「エトロフ」航路の開設、翌年には17カ所の漁場開拓、東回り航海用の造船を矢継ぎ早に命じた。その功績を認められて蝦夷地定雇船頭を任せられた。その他、名字帯刀を許されるなど幕府との関係は強固なものとなった。1812年、日露間の国境紛争に巻き込まれロシアに捕らわれた嘉兵衛ですが連行先のカムチャツカでロシアの信用を得て8カ月で釈放。

 2年前に松前藩の捕虜となっていたゴロヴニン艦長の釈放に尽力し日露双方から感謝される民間外交に貢献。そんな傍ら1806年に発生した大火では、当時の箱館にあった全建物の半分にあたる350戸を焼失。高田屋の店舗も被害に遭いながら住民に米や古着を配ったほか建築用材を津軽、秋田から仕入れて元値で販売。掘り抜き井戸や手押しポンプの整備した。

 その他、道路の改修、蝦夷地最初の造船所での新造船や修理を手がけるなど積極的に公共投資をする。さらに、ハマグリやシジミの養殖、杉や松の移植など、巨大な富を地域復興に投じ、箱館の都市形成に大きな役割を果たす。その後、嘉蔵、金兵衛ら弟達と「高田屋兄弟商会」として経営を強化。商品を厳選し量目を明示した山高印の屋号は、本州で絶大な信頼ができた。

 嘉兵衛が薩摩の浜崎太平次、越前の銭屋五兵衛とともに三大豪商と呼ばれて成功したのは、旺盛なパイオニア精神、情報収集および品質管理の徹底にあった。しかし、高田屋の雇船が日高沖でロシア船と友好のために実施した「旗合わせ」が目撃され、多くの利権を奪われた松前藩と近江商人・藤野喜四郎は直ちに、密輸入の嫌疑をかけて幕府に通告。
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