第31話 不眠
文字数 4,605文字
妻の広美からのはがきは食事会の誘いだったが、自分の体調が悪いことも告げられていた。いつもはがきだった。直接彼女の方から電話をかけてきたことは一度もない。
「奥さんから?」
カウンターの向こうで、森木佐那が微笑んで、小鉢を彼の前に置く。
「はい、春菊のしらあえ」
「めったにこないよ」と、手紙をしまったが、ふと気になる。
広美は昔から時々、身体の具合が悪くなった。それは決まって佑司とケンカした翌朝や、子供が自分の言うことを聞かずに逆らったとき、近所の主婦友だちとの気まずいことがあったときなどに突発的に起こった。
彼女が身体の具合をどうこう言うときは、なにか理由がある。彼はふと、今の集団生活に不満が出ているのではと思った。
彼女のはがきは、自分達で作った和紙の片面には絵を描き、片面の半分に宛名、下半分に少しだけ文が添えられたものだった。
いつも絵の題材は彼女達の畑でとれる野菜で、水彩で、淡くはあるが丹念に描かれていた。
それを見ると、彼はいつも彼女の心の状態が平安であることを知ったが、それを眺めるのは、玄関のポストからとって、ドアの鍵をあけて中に入り、鍵といっしょにテーブルの上に置くまでだけだった。
広美が「太陽の会」に入って8年になる。
13才だった娘のアキと、7才だった息子のシュウを連れ、突然家を出て行った。あまりに突然のことだったので、彼には理由もわからなかった。
広美はただ「本当に求めていたものを見つけたから」という。自分と別れてもそうしたいのか、子供にもそれを強いるのかと問いつめたら、「自分もみんなも素晴らしくなれる」と、彼にまで入会を勧め、彼が拒否するとおかしいとさえ言った。
いくら話しても平行線のまま、ある日仕事から帰ると、妻子は家からいなくなっていた。彼は折れるしかなかった。
それから8年。もう8年だと、そう強く思わないでいられるわけがない。
毎月仕送りしながら、時々会いに行った。最初は連れ帰ろうと思い、仕事が休みのたびに週に一度は行った。しかし、そのうちに回数が減っていき、今では3ケ月に一度、行けばいい方だ。
だから食事会の誘いの時には、いい機会だと行くようにしていた。しかし、今回は行くことを思いあぐねている。
しらあえを食べると、口の中にほんのり酸味があった。
その様子を感じたのか、佐那が「少し柚子の皮を入れてみたの。変だった?」と、くすくす笑った。
佐那は40そこそこぐらいの、落ち着いているが、茶目っ気のある女性だ。彼がこの店にときおり訪れるようになったのも、広美が出て行ってからだ。
おふくろの味を売り物にしている居酒屋で、彼はスーパーで買う総菜に飽きてくると、ここに来て、一杯ひっかけながら食べる。佐那とはしだいに親しく口をきくようになった。
彼女がずいぶん前に離婚していることもきいた。が、佑司の家の事情は、自分が単身赴任ということにしてあった。
普段話すことは仕事のこと、社会のニュースで、彼にはそれ以外の話がとりたててなかった。
そしてたいていは佐那の趣味のことを聞いていた。彼女は多趣味でスキューバダイビング、ジャズダンス、お茶、テニスなどあらゆることをしていた。その話を聞いていると楽しかった。
いや、話というより、話している彼女の活き活きとした様子が楽しかったからかもしれない。趣味のなかにはバードウォッチングなどもあり、一度いっしょにどうかと誘われていた。
そして、彼が仕事で落ち込んでいるのを察すると、見事にさりげなくはげましてくれる。
そのせいだろうか、彼は一度だけ、ある夜、最後の客のひとりになった後、どうしようもなく気持ちが傾き、佐那と寝たことがあった。
しかし彼女はその後も何もなかったようにふるまった。
一時の気の迷いで彼に思い入れがなかったのか、それとも彼が妻子もちであることへの配慮なのかわからないが、バードウォッチングに誘ってくれるあたり、脈ありなんだろうとは思う。
だが、彼もそこから深みにはまることはしなかった。
本当に単身赴任だったら、佐那とは単なる不倫になっただろうが、これ以上、自分のまわりを複雑にしたくなかった。
店を出ると、佑司は妻からのはがきを再び取り出して眺める。食事会だと呑気なもんだと、ふと思う。
自分は営業車の毎日だ。佐那に語れる趣味などももてない。
残業代はカットされ、給料やボーナスも減っている。接待などは減ったが、するなら自前は暗黙の了解だ。
いつリストラされるかもわからない。仕送りも今までと同じ額を送るのは、いささか大変である。
それにこれまでは、妻と子供たちが元の生活に戻りたいのなら、彼はいつでも迎え入れるつもりだった。
しかし、佐那の存在がただの不倫ではなく、自分の中で膨らんで行くのを感じると、今はそれも自信がない。
食事会のことは、どうせ離れているんだから気にしないことにした。
そして、夢のことも忘れることにした。気にしてもしょうがない。家に戻ると、そのはがきをごみ入れにそのまま放り込んだ。
* *
アパートや家々があるが、街中よりはまばらに建っていて、まだ田畑がそこかしこにある。その中に、周りを畑で囲まれ、大きな建物が何棟か並んだ広い敷地があった。
佑司はその近くで車を止めた。
「太陽の会」にやって来たのは久しぶりだ。食事会には来ないつもりだった佑司が、来ることにしたのは理由があった。
再び彼は恐ろしい夢を見てしまったのだ。
闇の中で誰かがもみあっている夢だ。ふりかざした奪い合う手のナイフが光る。月明かりがその顔をはっきりと照らした。
彼は目がさめると両手で頭を抱え込んだ。夢のその顔は、まさしく自分の息子のシュウだったからだ。
あの夢を見た後、すぐに広美に電話した。取り次いでもらい、彼女が電話に出てくるまでイライラした。仕事へ出かける時間も近づいていたから、つい電話に出るのが遅いと声を荒げた。
そして広美が何か言い訳しようとするのを遮って、シュウのことを聞くと、元気だと言った。
どういうふうなんだと聞いても、広美の話は元気だとかやさしいとかいい子だとか漠然としていた。
入り口のところで、ナスとキュウリを抱えているアキとばったり会った。
「お父さん」
アキは驚いたふうだったが、佑司の方が驚いた。
アキはずっと佑司や広美に反抗的で、高校卒業後は短大へ行くためにここから離れた。
それからは一度もここにも家にも帰らず、電話をしてもそっけないものだった。
今は旅行代理店に就職して忙しそうにしていることは知っていたが、広美に食事会に誘われたとしても、まさか来ているとは思わなかった。
「元気?なんか疲れてるみたい」
「そうか?元気だよ」
実は佑司はあのシュウの夢のせいで、よく眠れないでいる。あの夢の続きを見るのを恐れた。
「そっちはどうだ?」
「忙しーい」と、アキは笑った。久しぶりに見る娘の笑顔に、彼もつられて笑った。
娘がこんなに素直に自然な笑みを見せるのは、いつ以来だろうかと思う。
「白髪、ちょっと増えたね」
「そりゃあなあ。うちはみんな白髪だ」
「これから食事会の準備。大勢だから大変だよ」と、アキは野菜を抱え直した。
彼らは仲良く並んで歩く。その様子を見れば、数年ぶりの再会とは誰も思わないだろう。
「お母さんやシュウは元気か?」
「まあ、会ってみて。シュウはいないけど」
「いない?」彼に不安がよぎった。
妻の広美はじゃがいもの皮むきに忙しそうだった。
他の人たちと話し、笑いながら、和やかな雰囲気で準備をすすめている。佑司の顔を見るとにっこりと微笑んだ。
「シュウはどうした?いないとはどういうことだ」
佑司は広美を人のいない場所まで連れて行くと、開口一番にそう言った。
シュウはこの2日ほど帰って来てなかった。これまでも時々そういうことはあって、万引きや恐喝などで補導されたことも何度かあったそうだった。
「どうしてそれを今までおれに言わなかった?」
「あの子はそんな悪い子じゃありません。ちょっとした気の弛みからそうなったんです」
そう言って微笑みさえする広美が、佑司はまったく理解できなかった。
いや、憎悪すらした。“いい子でやさしい”シュウが補導されるようなことをやってるというのに、まったくこの女は悪びれもせず、心配もしていないじゃないかと腹がたった。
「おれがシュウを探し出して、連れて帰ることにする」
「え?」
「もうおまえにまかせられない。おまえのせいでシュウはそんなになったんだ」
「止めてください。止めてください。あの子には神様が必要なんです」
広美が止めようとするように、彼の袖を強く引っ張った。
「いい加減にしろ。神様神様って、おまえは普通じゃないよ。子どものことを本当に心配してるのか?」
広美はとても驚いたふうだった。
「当たり前じゃないですか。子どもの心配をしない親がどこにいるんですか」
「神様と子どもとどっちが大事なんだ?」
「そんな、神様も子どもも、私にはとても大切で必要なんです」
佑司はかあっとなって、広美の手をふりほどいた。
「おまえには必要だろうが、子どもには必要じゃない!おまえみたいな母親は必要じゃない!」
佑司は門に向かって、すたすた歩き出した。広美とは離婚しようと思った。
いったい何のための8年だったのか、いつか家族がみんなで仲良く暮らせる幻想を抱いていたのかと、彼は自分にも腹がたった。
「お父さん!ちょっと待って」アキが追いかけてくる。
「言い過ぎよ、お父さん」
「アキはお母さんと暮らしててよかったのか?」怒りがまだ治まらない。
「そうだな…」アキは声のトーンを変えた。
「私にとっては嫌な場所だった。なんでこんなところに連れてきたのって、腹がたってたまらなかった。
けど、お母さんはいつも私やシュウにやさしくしてた。それに私が人生の意味を考える視点を持てたのは、ここがあったからだと思う。
嫌で悩んだことが、それは私にとってすごく意味のあることだったんだって今は思える」
アキがいつの間にかずいぶん大人になったと佑司は思った。会わなかった同じ数年でも、彼と子どもだった娘ではぜんぜん違う。
「でも、そんなこと今頃になって言うなんて。なんで昔、ここに来たときに私やシュウに聞いてくれなかったのかな。
神様ばっかり言うお母さんも嫌だったけど、そんなお父さんのことだって、昔は嫌いだったんだよ」
娘のその言葉はぐさりときた。確かに佑司は子どもたちに、そんなことを言ったこともなかった。
彼は家に帰り、夜になってもずっと娘の言葉を引きずっていた。
あれからアキに誘われるままに食事会に参加して、妻の広美とも気まずいながらも穏やかに会話し、ケンカ別れのような苦い思いを残さずに済んだ。
娘はいつの間にか、親のことを心配して気を遣うほど大人になっていた。
そのことが余計彼を落ち込ませた。そしてベッドに横になっても、あのシュウの夢の続きを見るのではないかと眠ることを恐れた。
うとうとしては目がさめる。その繰り返しで、最近はぐっすり眠ることがなかった。
結局、佑司は使っていなかった有給休暇を取った。
上司は全くいい顔をしなかったが、どうしても息子を助けなければと思ったからだ。リストラの対象にあげられるのも覚悟の上だ。
家族で旅行するからということにしていたから、吉沢は「ゆっくりしてこいよ」と、安心したように言った。
「奥さんから?」
カウンターの向こうで、森木佐那が微笑んで、小鉢を彼の前に置く。
「はい、春菊のしらあえ」
「めったにこないよ」と、手紙をしまったが、ふと気になる。
広美は昔から時々、身体の具合が悪くなった。それは決まって佑司とケンカした翌朝や、子供が自分の言うことを聞かずに逆らったとき、近所の主婦友だちとの気まずいことがあったときなどに突発的に起こった。
彼女が身体の具合をどうこう言うときは、なにか理由がある。彼はふと、今の集団生活に不満が出ているのではと思った。
彼女のはがきは、自分達で作った和紙の片面には絵を描き、片面の半分に宛名、下半分に少しだけ文が添えられたものだった。
いつも絵の題材は彼女達の畑でとれる野菜で、水彩で、淡くはあるが丹念に描かれていた。
それを見ると、彼はいつも彼女の心の状態が平安であることを知ったが、それを眺めるのは、玄関のポストからとって、ドアの鍵をあけて中に入り、鍵といっしょにテーブルの上に置くまでだけだった。
広美が「太陽の会」に入って8年になる。
13才だった娘のアキと、7才だった息子のシュウを連れ、突然家を出て行った。あまりに突然のことだったので、彼には理由もわからなかった。
広美はただ「本当に求めていたものを見つけたから」という。自分と別れてもそうしたいのか、子供にもそれを強いるのかと問いつめたら、「自分もみんなも素晴らしくなれる」と、彼にまで入会を勧め、彼が拒否するとおかしいとさえ言った。
いくら話しても平行線のまま、ある日仕事から帰ると、妻子は家からいなくなっていた。彼は折れるしかなかった。
それから8年。もう8年だと、そう強く思わないでいられるわけがない。
毎月仕送りしながら、時々会いに行った。最初は連れ帰ろうと思い、仕事が休みのたびに週に一度は行った。しかし、そのうちに回数が減っていき、今では3ケ月に一度、行けばいい方だ。
だから食事会の誘いの時には、いい機会だと行くようにしていた。しかし、今回は行くことを思いあぐねている。
しらあえを食べると、口の中にほんのり酸味があった。
その様子を感じたのか、佐那が「少し柚子の皮を入れてみたの。変だった?」と、くすくす笑った。
佐那は40そこそこぐらいの、落ち着いているが、茶目っ気のある女性だ。彼がこの店にときおり訪れるようになったのも、広美が出て行ってからだ。
おふくろの味を売り物にしている居酒屋で、彼はスーパーで買う総菜に飽きてくると、ここに来て、一杯ひっかけながら食べる。佐那とはしだいに親しく口をきくようになった。
彼女がずいぶん前に離婚していることもきいた。が、佑司の家の事情は、自分が単身赴任ということにしてあった。
普段話すことは仕事のこと、社会のニュースで、彼にはそれ以外の話がとりたててなかった。
そしてたいていは佐那の趣味のことを聞いていた。彼女は多趣味でスキューバダイビング、ジャズダンス、お茶、テニスなどあらゆることをしていた。その話を聞いていると楽しかった。
いや、話というより、話している彼女の活き活きとした様子が楽しかったからかもしれない。趣味のなかにはバードウォッチングなどもあり、一度いっしょにどうかと誘われていた。
そして、彼が仕事で落ち込んでいるのを察すると、見事にさりげなくはげましてくれる。
そのせいだろうか、彼は一度だけ、ある夜、最後の客のひとりになった後、どうしようもなく気持ちが傾き、佐那と寝たことがあった。
しかし彼女はその後も何もなかったようにふるまった。
一時の気の迷いで彼に思い入れがなかったのか、それとも彼が妻子もちであることへの配慮なのかわからないが、バードウォッチングに誘ってくれるあたり、脈ありなんだろうとは思う。
だが、彼もそこから深みにはまることはしなかった。
本当に単身赴任だったら、佐那とは単なる不倫になっただろうが、これ以上、自分のまわりを複雑にしたくなかった。
店を出ると、佑司は妻からのはがきを再び取り出して眺める。食事会だと呑気なもんだと、ふと思う。
自分は営業車の毎日だ。佐那に語れる趣味などももてない。
残業代はカットされ、給料やボーナスも減っている。接待などは減ったが、するなら自前は暗黙の了解だ。
いつリストラされるかもわからない。仕送りも今までと同じ額を送るのは、いささか大変である。
それにこれまでは、妻と子供たちが元の生活に戻りたいのなら、彼はいつでも迎え入れるつもりだった。
しかし、佐那の存在がただの不倫ではなく、自分の中で膨らんで行くのを感じると、今はそれも自信がない。
食事会のことは、どうせ離れているんだから気にしないことにした。
そして、夢のことも忘れることにした。気にしてもしょうがない。家に戻ると、そのはがきをごみ入れにそのまま放り込んだ。
* *
アパートや家々があるが、街中よりはまばらに建っていて、まだ田畑がそこかしこにある。その中に、周りを畑で囲まれ、大きな建物が何棟か並んだ広い敷地があった。
佑司はその近くで車を止めた。
「太陽の会」にやって来たのは久しぶりだ。食事会には来ないつもりだった佑司が、来ることにしたのは理由があった。
再び彼は恐ろしい夢を見てしまったのだ。
闇の中で誰かがもみあっている夢だ。ふりかざした奪い合う手のナイフが光る。月明かりがその顔をはっきりと照らした。
彼は目がさめると両手で頭を抱え込んだ。夢のその顔は、まさしく自分の息子のシュウだったからだ。
あの夢を見た後、すぐに広美に電話した。取り次いでもらい、彼女が電話に出てくるまでイライラした。仕事へ出かける時間も近づいていたから、つい電話に出るのが遅いと声を荒げた。
そして広美が何か言い訳しようとするのを遮って、シュウのことを聞くと、元気だと言った。
どういうふうなんだと聞いても、広美の話は元気だとかやさしいとかいい子だとか漠然としていた。
入り口のところで、ナスとキュウリを抱えているアキとばったり会った。
「お父さん」
アキは驚いたふうだったが、佑司の方が驚いた。
アキはずっと佑司や広美に反抗的で、高校卒業後は短大へ行くためにここから離れた。
それからは一度もここにも家にも帰らず、電話をしてもそっけないものだった。
今は旅行代理店に就職して忙しそうにしていることは知っていたが、広美に食事会に誘われたとしても、まさか来ているとは思わなかった。
「元気?なんか疲れてるみたい」
「そうか?元気だよ」
実は佑司はあのシュウの夢のせいで、よく眠れないでいる。あの夢の続きを見るのを恐れた。
「そっちはどうだ?」
「忙しーい」と、アキは笑った。久しぶりに見る娘の笑顔に、彼もつられて笑った。
娘がこんなに素直に自然な笑みを見せるのは、いつ以来だろうかと思う。
「白髪、ちょっと増えたね」
「そりゃあなあ。うちはみんな白髪だ」
「これから食事会の準備。大勢だから大変だよ」と、アキは野菜を抱え直した。
彼らは仲良く並んで歩く。その様子を見れば、数年ぶりの再会とは誰も思わないだろう。
「お母さんやシュウは元気か?」
「まあ、会ってみて。シュウはいないけど」
「いない?」彼に不安がよぎった。
妻の広美はじゃがいもの皮むきに忙しそうだった。
他の人たちと話し、笑いながら、和やかな雰囲気で準備をすすめている。佑司の顔を見るとにっこりと微笑んだ。
「シュウはどうした?いないとはどういうことだ」
佑司は広美を人のいない場所まで連れて行くと、開口一番にそう言った。
シュウはこの2日ほど帰って来てなかった。これまでも時々そういうことはあって、万引きや恐喝などで補導されたことも何度かあったそうだった。
「どうしてそれを今までおれに言わなかった?」
「あの子はそんな悪い子じゃありません。ちょっとした気の弛みからそうなったんです」
そう言って微笑みさえする広美が、佑司はまったく理解できなかった。
いや、憎悪すらした。“いい子でやさしい”シュウが補導されるようなことをやってるというのに、まったくこの女は悪びれもせず、心配もしていないじゃないかと腹がたった。
「おれがシュウを探し出して、連れて帰ることにする」
「え?」
「もうおまえにまかせられない。おまえのせいでシュウはそんなになったんだ」
「止めてください。止めてください。あの子には神様が必要なんです」
広美が止めようとするように、彼の袖を強く引っ張った。
「いい加減にしろ。神様神様って、おまえは普通じゃないよ。子どものことを本当に心配してるのか?」
広美はとても驚いたふうだった。
「当たり前じゃないですか。子どもの心配をしない親がどこにいるんですか」
「神様と子どもとどっちが大事なんだ?」
「そんな、神様も子どもも、私にはとても大切で必要なんです」
佑司はかあっとなって、広美の手をふりほどいた。
「おまえには必要だろうが、子どもには必要じゃない!おまえみたいな母親は必要じゃない!」
佑司は門に向かって、すたすた歩き出した。広美とは離婚しようと思った。
いったい何のための8年だったのか、いつか家族がみんなで仲良く暮らせる幻想を抱いていたのかと、彼は自分にも腹がたった。
「お父さん!ちょっと待って」アキが追いかけてくる。
「言い過ぎよ、お父さん」
「アキはお母さんと暮らしててよかったのか?」怒りがまだ治まらない。
「そうだな…」アキは声のトーンを変えた。
「私にとっては嫌な場所だった。なんでこんなところに連れてきたのって、腹がたってたまらなかった。
けど、お母さんはいつも私やシュウにやさしくしてた。それに私が人生の意味を考える視点を持てたのは、ここがあったからだと思う。
嫌で悩んだことが、それは私にとってすごく意味のあることだったんだって今は思える」
アキがいつの間にかずいぶん大人になったと佑司は思った。会わなかった同じ数年でも、彼と子どもだった娘ではぜんぜん違う。
「でも、そんなこと今頃になって言うなんて。なんで昔、ここに来たときに私やシュウに聞いてくれなかったのかな。
神様ばっかり言うお母さんも嫌だったけど、そんなお父さんのことだって、昔は嫌いだったんだよ」
娘のその言葉はぐさりときた。確かに佑司は子どもたちに、そんなことを言ったこともなかった。
彼は家に帰り、夜になってもずっと娘の言葉を引きずっていた。
あれからアキに誘われるままに食事会に参加して、妻の広美とも気まずいながらも穏やかに会話し、ケンカ別れのような苦い思いを残さずに済んだ。
娘はいつの間にか、親のことを心配して気を遣うほど大人になっていた。
そのことが余計彼を落ち込ませた。そしてベッドに横になっても、あのシュウの夢の続きを見るのではないかと眠ることを恐れた。
うとうとしては目がさめる。その繰り返しで、最近はぐっすり眠ることがなかった。
結局、佑司は使っていなかった有給休暇を取った。
上司は全くいい顔をしなかったが、どうしても息子を助けなければと思ったからだ。リストラの対象にあげられるのも覚悟の上だ。
家族で旅行するからということにしていたから、吉沢は「ゆっくりしてこいよ」と、安心したように言った。
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