第16話 マリア14

文字数 1,756文字

 夕方、空がいきなり曇り始めた。もうすぐ夕立ちがきそうだ。コージの家は、私の住宅地からは少し離れた所にある。家が密集している一角にある古いアパートの2階だ。
 ドアを開けたのは父親だった。
「コージ!」
不愛想な顔のまま声を張り上げると、すぐ奥にひっこんだ。コージは出てくると、靴をはき一緒に外に出た。

「ヒジリ、こいつ誰?」
 コージは、私といっしょにいるこの見たことのない背広姿の男が気になっていた。
「ちょっとした知り合い。マシタさん」
「よろしく」とマシタが会釈するが、コージは無視した。

「コージ、あの黒い鞄のことなんだけど」
「捨てたっていったろ」
「あの紙きれも?」
「紙?」
「ほら、ノートから一枚ひきちぎったようなので、なんか書いてあったじゃない」
「何て書いてあったか覚えてる?」マシタも口をはさんだ。
「覚えてないね。関係ないだろ。なんでこいつにまでしゃべったんだ?」
「それが、彼の探してるものかもしれないから」

「じゃあ、あれ…。あれは何だっていうんだ?ただの水じゃないのか?」 
「きみはその水に何か入っているのを見なかったか?」
「見なかったね」
「コージ、もしあれが彼の探しているものだったら、はやく見つけないとやばいんだ。どこに捨てたの?」
「どうやばいんだ?」と、コージは薄ら笑いを浮かべた。
「強力な幻覚作用があって、人を錯乱させる」
「幻覚…」

 コージはためらっているようだった。アパートの階段口で、手すりを足で軽く蹴った。
「捨てたんじゃないんだ。本当は黒い鞄ごとやられたんだ」
「え?」
「やつらに盗られた。暮田伸哉と小島ユウキ」
「そんな。いつ?」
「最近」
「警察にはそれ言った?」
思いもしなかった展開だ。
「鞄盗られたくらい、関係ないだろ。中に大金でもあれば別だろが。で、今度見つけたらぶん殴ってやろうと思ってたら、今日、1人死んで、1人行方不明だろ。かんべんしてくれよって感じさ。おれが疑われるじゃねーかよ。だから言わなかったんだ」
マシタと顔を見合わせた。コージはそんな様子を見て、不安そうな顔をした。


 その夜、ヒジリは『サードアイ』にメールしたが、“家から出られないから”と、会うことを拒否された。
 “神聖なもの”とはどういうものか質問してみた。
   
  『純粋な存在。だから善にも悪にもなれる。
  確かな自分を見出せないものは、悪に導かれる。
  たとえ、どんなに架空、妄想の世界を自分の中に
  作り上げて防御しても、現実は変わらないという
  醒めた意識は、なかなか消し去れない。
  だから効き目が薄い中毒患者のように、もっと
  意識をぼかすために、架空世界にますます耽溺
  していき、偏った考え方に固執していく。
  この現実の方がおかしいとか、間違ってるとか、
  そういう方向に向かう。』


 午前中、トモエは今日のお通夜や明日の告別式の準備で家に戻っていた。彼女は弟の部屋にいた。ベッドに座り、ぼんやりと壁の方を見ていた。私はそれを見て驚いた。夢に出て来た絵だったからだ。

 ユウキの部屋には女の絵のポスターが貼られていた。官能的に唇を半開きにして、乳房も露な女だ。14歳の年齢を考えると、やけに大人びてる。
「クリムトだって、この絵」トモエは小さな声で言った。「刑事さんに言われるまで知らなかった」

 トモエは私を見た。泣いてないけど、寝ていないような疲れた顔をしていた。
「犯人はすぐ捕まるよ。どこにいったか、警察が必死に探してるから」
私はトモエの横に座った。
「ねえ、ヒジリ。コワイ顔、見たことある?」
「え?」
「口が裂けた恐ろしい顔、猛獣みたいな」

トモエの目が宙を泳いだ。
「私、自分の声だけ聞いていたのに」
『サードアイ』のアドバイスだ。
「でも無理だった無理だった無理だった」
彼女は弟の死のショックですっかり混乱しているようだった。

私には何も言う言葉が見つからなかった。ユウキの死をしょうがないなんてなぐさめられるはずも、がんばれなんて他人事のはげましもできるわけない。私にできることは、ただ彼女のとなりにいることぐらいだった。
 私の目の先にあるクリムトの絵の女の艶やかな微笑みは、いまのこの場に不似合いなほど永遠の幸福を感じさせた。
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