第8話 流木
文字数 4,154文字
もちろん翌日、レンタル店には行かなかったし、とりたてて何もない毎日だった。アイラが休んでいることを除けばだ。いったいどうしたというんだろう。友だちの間で、彼女の話は出なかった。私もいつもなら、休んでるからってそれほど気にとめたりしない。
でも今日は彼女が死んだ日だ。考えずにはいられなかった。あれが夢だったとしても考えてしまう。もし死ぬのなら、なぜあのビルの屋上で一人たたずむ必要があるんだろう。なぜ落ちなければならないんだろう。誰かに殺されたのなら、彼女は恨まれることでもあるんだろうか。彼女はとりたてて何かにこだわるでもなく、何かに悩むふうでも、不満そうでもなく、深刻さは見られなかった。
「アイラったらカレシがいたんだって、知ってる?」
ななめ後ろの席のトモエが、シャーペンの反対側で私をつっついた。
「それがさあ、ヒジリは知ってるんじゃない?レイジの友だちの三組の和田コーセイっていうサッカー部の」
私はなんでここでコーセイの名前がでるのか、ぴんとこなかった。
「さわやか系よね、野本くんみたいな。トモエ好み」
サヨコも横から口をだす。
「でも転校したじゃない。昨日、彼を見送りにアイラ、駅に行ってて、それを見た人がいてわかったわけ」
信じられない。アイラがコーセイと?嘘だ、そんなの。
先生が入ってきて話はとぎれたけど、授業はもうどこかにいってしまった。頭の中が渦巻いてる。
私はアイラとコーセイの接点を探そうとした。コーセイとアイラは中学は別だったけど、そういえば塾が一緒だった。高校1年でクラスが同じになった。でもアイラは、レイジのことをよくしゃべってたじゃない。コーセイのことなんて一度も出なかった。こんな近くにいる友だちに、それらしい素振りも見せないなんて。
でも、コーセイが、なんでアイラなんかとつき合うんだろう。っていうか、コーセイに似合ってないとさえ思えた。どうしても事実が知りたくなった。それに今日は特別気になる日だ。彼女はあのみんなで集まるビルの屋上にいるはずだ。
実のところ、コーセイの話を聞かなかったら、私は行かなかっただろう。
暗くなった階段を上り屋上に出ると、あたりは陽が沈む前のオレンジの輝きに包まれ、その中でアイラはひとり、背中を見せていた。
「何してるの?アイラ」
彼女は何も言わない。
「ずっと休んでたから病気かと思ったのに」
アイラはぷっと笑うと、また背中を見せた。
「なにがおかしいの」
むかついてきた。こっちはコーセイのことや、アイラが死ぬかもしれないとか入り乱れているのに、いつものまんまの調子じゃない。
「べつにおかしくない」
「笑ったじゃない。いつもそう。すぐそうやって笑ってすます。私が話すことなんかどうでもいいって感じで」
コーセイのさわやかな笑顔を思い浮かべる。あの笑顔がいつも彼女に向けられてたんだ。
「どうでもいい?それはヒジリでしょ」
あまりにも突然な、アイラらしくない一言に、一瞬、心がひやりとした。
「あなたも、サヨコもトモエもみんな、私のことなんかどうでもいいんでしょ?私が欠席してる間、私のこと話した?」
「なに言ってるの」
「『どこへ行く?』『何する?』『どうしたい?』、どれも私には言われなかった。私はいてもいなくても同じだった」
「なに言ってるの。誰もそんなこと」
「みんな都合よく思う私のイメージとだけ、つきあいたかったんだよね。トモエはくっついてくる、自分をひとりきりにしない私と、サヨコはそうよねって同調してくれる私と。ヒジリは、優越感のもてる比較対象の私と」
頭の中がぐるぐる回る感じ。
「あんたがそんなこと思ってたなんて…」
「私はどうでもよくはなかったんだよ。みんなのこと。でもみんなの言葉って、時々グサグサきた。それでもまだ我慢できた…」
アイラは少し黙った。何かをかみしめるように。
「なのに、分かってくれる人が一人もいなくなった、私の気持ちがわかる?」
いなくなったコーセイは、アイラにとって特別だったんだ。私はアイラが自分の気持ちを話すことに驚いた。そんな感情が、穏やかな微笑みの裏側にあったことがショックだった。彼女は笑って私たちに同調しながら、本心じゃなかった。心の奥では私たちを見下し、嘲り叫んでたのかもしれない。
ひどいよ。なんで言わなかったの。言わないで隠してるあんたが悪いんじゃない、アイラ。
ぎゅっと痛いほどに握ってしまった拳が震えてくる。
「ねえ、コーセイは?」
私の口からふいに、思いもしなかった言葉が流れ出た。アイラはいぶかしげに私を見た。
「コーセイからメール、来た?」
ふわふわと雲の上にいるような気分だった。
「驚いたよ。本当は私のこと好きだったなんて書いてあって」
アイラは無表情だった。本当に何も感情のない顔していた。あのいつもの微笑みを忘れ去っていた。
「そうだ、アイラも1年のとき一緒だったよね。知ってるでしょ、サッカー部の、和田コーセイ」
「うそ」
アイラの顔が青ざめていく。
「アイラには言わなかったけど、実はコーセイとは時々会ってて」勝手に嘘の言葉がでてくる。
アイラは両手で口を押さえ、何か言おうとしたが言葉にならず、そのまま後ろへよろめいて下がった。彼女は背後のフェンスに、そこにそれがあることを予想してなかったように勢い良く当たった。そこのフェンスの錆びた支柱がはずれた。私は動けなかった。声もたてずに、私を見ながらのけぞっていくアイラ。そしてそのまま、私の視界から消えた。
音がした。でも私の目は、フェンスの向こうに広がる夕焼けに染まった街を眺め続けていた。どれくらい時間がたったのかわからなかった。やがて、私は屋上の端にゆっくり歩み寄り下を見た。その奇妙におかしく曲がった、アスファルトにこぼれたものの周りに、ぱらぱらと人が寄って来ていた。
まだ夢の続きのようにふわふわと階段を走りおりる。もうずいぶん人垣ができていた。ざわめく声、救急車を呼べという声、もう死んでるという声、脳みそが飛び散ってるという声。夢の続きのようでリアルじゃなかった。
私は夢遊病者のように、その声をかきわけていく。人込みの中にあの顔を見た。マシタだ。彼は悲し気に私を見ていた。まるですべてを知っていたかのように。知らなければよかったのにとでも言ってるように。そして人込みの中に彼の姿は消えた。ますます人だかりは増えていく。
不思議な気分だ。またふりだしに戻って、やり直しがきくように思えた。空を見上げると、雲が少し不規則に動きつつあった。
ラジオはさっきから台風情報を流している。現在920ヘクトパスカルと今年最大で、明日の夕方の、今ぐらいの時間に上陸するらしかった。風はけっこう強いけど、でもまだ湿り気はない。ちぎれちぎれに飛んでいく雲の間で、夕焼けはぱあっと赤い絵の具をまいたようにきれいだ。連なってのろのろ動く車や、早足で歩く人たち、屋上から見える街並全部が、太陽の最後の輝きの色に染まっている。
私は太陽がだんだん沈み、暗闇に変化していく様子を眺めるのがとても好きだ。日の出が人生の始まりとしたら、日の入りはその終りって感じかな。でも、たいていの人は忙しすぎて、そんなことを思ってるような暇はないみたいだ。人も車も忙しそうに行き交っている。
まるでちっぽけな蟻の群れのよう。人間が蟻を気にしないように、宇宙もまた、このちっぽけな私たちなんて気にしてないだろう。神様なんていない。神様に作られたわけがない。人間は、地球の生き物たちは、ただ偶然生まれたにすぎないんだ。ただ、見守られてる存在がないなんて想像しただけで寂しすぎるから、存在するって思いたいだけなんだ。
私は今日は特別感傷的になってるから、そんなことをふと考える。
私は待っていた。夢からさめるのを、また巻き戻しが繰り返されるのを。でも、風はますます強くなるばかりで、背後からはいつまでも友だちの声は聞こえなかった。
本当なら聞こえるはずがないんだ。みんなは、アイラのお通夜に行っているから。
その夜、台風が上陸した。
台風が通り過ぎたのは、翌日の昼頃だった。
昨晩、あの台風の最中、レンタル店の『予言者』がめった刺しで殺された。店長はその時間、自宅が浸水して帰っていて、『予言者』は一人きりだった。首は何度ものこぎりのようなものにひかれて、ほとんど切れかけ、骨のところだけようやくつながっていたという。
犯人はナオくんだった。受験勉強によるノイローゼが原因とされた。
『このあいだレンタル店に行ってたでしょ』
『ううん。最近は行ってないよ』
ナオくんは私と話して思いついたのか、その日DVDを借りに行った。そして『予言者』に“きみは殺される”とお告げを受けた。彼は自分を守ろうと、就寝中の両親をゴルフクラブで撲殺。死体には目隠しをし、その足でレンタル店に向かった。
「知らなければよかったのに。せめて見ないふりをしておけば」
やさしくてまじめなナオくんは、両親と店員と自分自身に、そう話しかけたんだろうね。
私は川で足を止めた。台風のあとは、蒸し暑さとまぶしさがある。そして黒い川は茶色の濁流に変わって、どんどん流れていた。自転車もガラス瓶もすべて流れ去っていたけど、流木がひとつどっしりと止まり、濁流の流れをそこだけ変えていた。
それを同じように見ている人がいた。
「すごい流れだ」
「守木さん」
隣の家の守木さんだ。奥さんはまだ帰ってこない。
「あの事件、驚いたねえ」と言った。ナオくんのことだ。
「人の心なんて、わからないもんだねえ」
そうつぶやいて、おじさんはまた歩き出した。
そう、わからない。ずっと油絵をやってた奥さん。それを尊敬しほめあげた守木さん。でも、奥さんに影響されて描きはじめた守木さんの初めて出した絵が、奥さんより大きい賞をとった。
アイラは優越感のもてる比較対象の私と言った。そう、私の絵のタイトルは嫉妬。
濁流はどんどん流れるが、せきとめられている所では流れが歪んでいる。
そこではアイラが顔半分を出して、ずっと私を見ていた。
流木 おわり
でも今日は彼女が死んだ日だ。考えずにはいられなかった。あれが夢だったとしても考えてしまう。もし死ぬのなら、なぜあのビルの屋上で一人たたずむ必要があるんだろう。なぜ落ちなければならないんだろう。誰かに殺されたのなら、彼女は恨まれることでもあるんだろうか。彼女はとりたてて何かにこだわるでもなく、何かに悩むふうでも、不満そうでもなく、深刻さは見られなかった。
「アイラったらカレシがいたんだって、知ってる?」
ななめ後ろの席のトモエが、シャーペンの反対側で私をつっついた。
「それがさあ、ヒジリは知ってるんじゃない?レイジの友だちの三組の和田コーセイっていうサッカー部の」
私はなんでここでコーセイの名前がでるのか、ぴんとこなかった。
「さわやか系よね、野本くんみたいな。トモエ好み」
サヨコも横から口をだす。
「でも転校したじゃない。昨日、彼を見送りにアイラ、駅に行ってて、それを見た人がいてわかったわけ」
信じられない。アイラがコーセイと?嘘だ、そんなの。
先生が入ってきて話はとぎれたけど、授業はもうどこかにいってしまった。頭の中が渦巻いてる。
私はアイラとコーセイの接点を探そうとした。コーセイとアイラは中学は別だったけど、そういえば塾が一緒だった。高校1年でクラスが同じになった。でもアイラは、レイジのことをよくしゃべってたじゃない。コーセイのことなんて一度も出なかった。こんな近くにいる友だちに、それらしい素振りも見せないなんて。
でも、コーセイが、なんでアイラなんかとつき合うんだろう。っていうか、コーセイに似合ってないとさえ思えた。どうしても事実が知りたくなった。それに今日は特別気になる日だ。彼女はあのみんなで集まるビルの屋上にいるはずだ。
実のところ、コーセイの話を聞かなかったら、私は行かなかっただろう。
暗くなった階段を上り屋上に出ると、あたりは陽が沈む前のオレンジの輝きに包まれ、その中でアイラはひとり、背中を見せていた。
「何してるの?アイラ」
彼女は何も言わない。
「ずっと休んでたから病気かと思ったのに」
アイラはぷっと笑うと、また背中を見せた。
「なにがおかしいの」
むかついてきた。こっちはコーセイのことや、アイラが死ぬかもしれないとか入り乱れているのに、いつものまんまの調子じゃない。
「べつにおかしくない」
「笑ったじゃない。いつもそう。すぐそうやって笑ってすます。私が話すことなんかどうでもいいって感じで」
コーセイのさわやかな笑顔を思い浮かべる。あの笑顔がいつも彼女に向けられてたんだ。
「どうでもいい?それはヒジリでしょ」
あまりにも突然な、アイラらしくない一言に、一瞬、心がひやりとした。
「あなたも、サヨコもトモエもみんな、私のことなんかどうでもいいんでしょ?私が欠席してる間、私のこと話した?」
「なに言ってるの」
「『どこへ行く?』『何する?』『どうしたい?』、どれも私には言われなかった。私はいてもいなくても同じだった」
「なに言ってるの。誰もそんなこと」
「みんな都合よく思う私のイメージとだけ、つきあいたかったんだよね。トモエはくっついてくる、自分をひとりきりにしない私と、サヨコはそうよねって同調してくれる私と。ヒジリは、優越感のもてる比較対象の私と」
頭の中がぐるぐる回る感じ。
「あんたがそんなこと思ってたなんて…」
「私はどうでもよくはなかったんだよ。みんなのこと。でもみんなの言葉って、時々グサグサきた。それでもまだ我慢できた…」
アイラは少し黙った。何かをかみしめるように。
「なのに、分かってくれる人が一人もいなくなった、私の気持ちがわかる?」
いなくなったコーセイは、アイラにとって特別だったんだ。私はアイラが自分の気持ちを話すことに驚いた。そんな感情が、穏やかな微笑みの裏側にあったことがショックだった。彼女は笑って私たちに同調しながら、本心じゃなかった。心の奥では私たちを見下し、嘲り叫んでたのかもしれない。
ひどいよ。なんで言わなかったの。言わないで隠してるあんたが悪いんじゃない、アイラ。
ぎゅっと痛いほどに握ってしまった拳が震えてくる。
「ねえ、コーセイは?」
私の口からふいに、思いもしなかった言葉が流れ出た。アイラはいぶかしげに私を見た。
「コーセイからメール、来た?」
ふわふわと雲の上にいるような気分だった。
「驚いたよ。本当は私のこと好きだったなんて書いてあって」
アイラは無表情だった。本当に何も感情のない顔していた。あのいつもの微笑みを忘れ去っていた。
「そうだ、アイラも1年のとき一緒だったよね。知ってるでしょ、サッカー部の、和田コーセイ」
「うそ」
アイラの顔が青ざめていく。
「アイラには言わなかったけど、実はコーセイとは時々会ってて」勝手に嘘の言葉がでてくる。
アイラは両手で口を押さえ、何か言おうとしたが言葉にならず、そのまま後ろへよろめいて下がった。彼女は背後のフェンスに、そこにそれがあることを予想してなかったように勢い良く当たった。そこのフェンスの錆びた支柱がはずれた。私は動けなかった。声もたてずに、私を見ながらのけぞっていくアイラ。そしてそのまま、私の視界から消えた。
音がした。でも私の目は、フェンスの向こうに広がる夕焼けに染まった街を眺め続けていた。どれくらい時間がたったのかわからなかった。やがて、私は屋上の端にゆっくり歩み寄り下を見た。その奇妙におかしく曲がった、アスファルトにこぼれたものの周りに、ぱらぱらと人が寄って来ていた。
まだ夢の続きのようにふわふわと階段を走りおりる。もうずいぶん人垣ができていた。ざわめく声、救急車を呼べという声、もう死んでるという声、脳みそが飛び散ってるという声。夢の続きのようでリアルじゃなかった。
私は夢遊病者のように、その声をかきわけていく。人込みの中にあの顔を見た。マシタだ。彼は悲し気に私を見ていた。まるですべてを知っていたかのように。知らなければよかったのにとでも言ってるように。そして人込みの中に彼の姿は消えた。ますます人だかりは増えていく。
不思議な気分だ。またふりだしに戻って、やり直しがきくように思えた。空を見上げると、雲が少し不規則に動きつつあった。
ラジオはさっきから台風情報を流している。現在920ヘクトパスカルと今年最大で、明日の夕方の、今ぐらいの時間に上陸するらしかった。風はけっこう強いけど、でもまだ湿り気はない。ちぎれちぎれに飛んでいく雲の間で、夕焼けはぱあっと赤い絵の具をまいたようにきれいだ。連なってのろのろ動く車や、早足で歩く人たち、屋上から見える街並全部が、太陽の最後の輝きの色に染まっている。
私は太陽がだんだん沈み、暗闇に変化していく様子を眺めるのがとても好きだ。日の出が人生の始まりとしたら、日の入りはその終りって感じかな。でも、たいていの人は忙しすぎて、そんなことを思ってるような暇はないみたいだ。人も車も忙しそうに行き交っている。
まるでちっぽけな蟻の群れのよう。人間が蟻を気にしないように、宇宙もまた、このちっぽけな私たちなんて気にしてないだろう。神様なんていない。神様に作られたわけがない。人間は、地球の生き物たちは、ただ偶然生まれたにすぎないんだ。ただ、見守られてる存在がないなんて想像しただけで寂しすぎるから、存在するって思いたいだけなんだ。
私は今日は特別感傷的になってるから、そんなことをふと考える。
私は待っていた。夢からさめるのを、また巻き戻しが繰り返されるのを。でも、風はますます強くなるばかりで、背後からはいつまでも友だちの声は聞こえなかった。
本当なら聞こえるはずがないんだ。みんなは、アイラのお通夜に行っているから。
その夜、台風が上陸した。
台風が通り過ぎたのは、翌日の昼頃だった。
昨晩、あの台風の最中、レンタル店の『予言者』がめった刺しで殺された。店長はその時間、自宅が浸水して帰っていて、『予言者』は一人きりだった。首は何度ものこぎりのようなものにひかれて、ほとんど切れかけ、骨のところだけようやくつながっていたという。
犯人はナオくんだった。受験勉強によるノイローゼが原因とされた。
『このあいだレンタル店に行ってたでしょ』
『ううん。最近は行ってないよ』
ナオくんは私と話して思いついたのか、その日DVDを借りに行った。そして『予言者』に“きみは殺される”とお告げを受けた。彼は自分を守ろうと、就寝中の両親をゴルフクラブで撲殺。死体には目隠しをし、その足でレンタル店に向かった。
「知らなければよかったのに。せめて見ないふりをしておけば」
やさしくてまじめなナオくんは、両親と店員と自分自身に、そう話しかけたんだろうね。
私は川で足を止めた。台風のあとは、蒸し暑さとまぶしさがある。そして黒い川は茶色の濁流に変わって、どんどん流れていた。自転車もガラス瓶もすべて流れ去っていたけど、流木がひとつどっしりと止まり、濁流の流れをそこだけ変えていた。
それを同じように見ている人がいた。
「すごい流れだ」
「守木さん」
隣の家の守木さんだ。奥さんはまだ帰ってこない。
「あの事件、驚いたねえ」と言った。ナオくんのことだ。
「人の心なんて、わからないもんだねえ」
そうつぶやいて、おじさんはまた歩き出した。
そう、わからない。ずっと油絵をやってた奥さん。それを尊敬しほめあげた守木さん。でも、奥さんに影響されて描きはじめた守木さんの初めて出した絵が、奥さんより大きい賞をとった。
アイラは優越感のもてる比較対象の私と言った。そう、私の絵のタイトルは嫉妬。
濁流はどんどん流れるが、せきとめられている所では流れが歪んでいる。
そこではアイラが顔半分を出して、ずっと私を見ていた。
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