第19話 ブラインド

文字数 2,354文字

ブラインド

 セミの声が聞こえていた。渋沢レイジはブラインドの隙間から漏れ入るオレンジ色が、フローリングの床と、そこに横たわる自分の腕の一部分に当たっているのを見て、今は夕方なんだとぼんやりした頭で思った。
 すっかり時間を忘れている。オレンジ色の筋がついた腕を少し動かした。重い。このままならない身体が、自分のものだという感覚が失くなりつつあった。彼はまるで他人のもののように、自分の腕を見つめていた。

* *
 
 レイジが横田先生と関わりはじめたのは、3ヶ月ほど前だ。体育館でボールの後始末していたのがきっかけだった。2人だけで片付けながらいろいろ話していると、「これからも後片付け、手伝ってくれない?」と、先生は彼に言った。それからレイジはいつも体育の授業の後は残っていた。

 夏休みになって突然、レイジは横田先生のマンションに呼び出された。3日前のことだ。横田先生は彼の家にクラスの友だちの名前で電話をかけてきた。母親は少しその友だちについてたずねたが、彼があいまいに返事すると、後はもう聞かなかった。レイジはスマホを持ってなかった。父親が許さなかったからだ。

 彼の父、渋沢邦雄はリフォームの会社に勤めている。営業で家々をまわるが、最近あまり仕事がとれないらしく、ますますむっつりしている。母の雅実はそんな父にいつも遠慮している。製造業の会社の経理事務員をしていたが、出荷で忙しいときには箱詰めも手伝わなくてはいけなかったので、残業することもあった。帰宅が遅くなると、先に帰っている父の顔色をうかがった。

 邦雄は自分はいつも仕事優先だが、母が自分のことを優先しないと不機嫌だった。だからは雅実はときには残業を断って、会社でも遠慮しながら家でも遠慮する。入院している邦雄の母親の洗濯物を仕事帰りに取りに行き、夜洗ってはまた朝届けて仕事に行った。雅実にはまるで自分の時間がなかった。
 レイジはそんな母を手伝うし、代わりに病院に行くこともある。邦雄は土曜日か日曜日、ゴルフに行く前に、病院に寄って5分ほど話していくだけだ。レイジに対しても一方的に、あれがダメこれがダメというだけで、彼がどう思っているのか聞いたこともない。父の意にそぐわないことは、家族は心に隠したままだ。その間には理解しあえない溝がある。レイジは自分は絶対父のようにはならないと思った。

 父親の文句は最近ますますひどくなっている。“誰がメシ食わせてやってるんだ”とか“おれの稼いだ金をおれがどう使おうと勝手だろ”とか、あげくは“誰の許可をとってとなりはあんなにテレビの音を大きくしてるんだ”とまで言う。そんな父に母は何も文句が言えない。母は自分で何かをするときは、必ず“父さんには内緒よ”とレイジに言う。彼はうんざりしていた。かといって、友だちにはこういう話をすることはない。

 中学のとき、悩みを友だちに言ったことがあった。すると、その友だちは一言「クライやつだな」と言った。それ以来、彼は明るくしようとつとめた。彼は幼なじみのコーセイの快活さがうらやましかった。コーセイのまわりには、彼を好きな仲間たちがたくさんいた。
 高校になると、レイジも女の子にもてた。何度か告白もされ付き合いもしたが、自分の内面を知られたらまた“クライ”と言われそうで、いつも違う自分を演じていた。高校での仲間たちさえも、自分の明るく見せている表面だけしか知らないはずだった。

 そして、夏休み前のアイラの死、サヨコの件、そしてトモエの事件と、仲間にいろいろ問題が起きたが、実はレイジには、最近何かそういうことが起きうるという予感があった。理由を口にすれば、おかしくなってしまったと思われるだけだろう、そんな恐怖がレイジの心をますます内側にひきこもらせた。心に鬱積するものを抱えたまま、ヒジリたちと会う気分にはなれなかった。
 恐怖から逃れたかった。だから夏休みの間に入ると、レイジは友だちには会うことなく、親にも何も言わず、ひとりアルバイトに没頭した。毎日毎日、皿を洗い、ゴミを出し、ビールケースを抱え歩く。金をためてスマホを持ち、横田先生にだけ自分の電話番号を教えようと思ったのだ。先生とだけなら話ができそうだった。

 そんなときに、先生から呼び出されたのだ。レイジはすぐに先生のマンションに行った。 横田先生は髪をたらし、いつもと違う格好だった。肩もあらわなキャミソールで、かがむと胸元が見えそうだ。何でおれを呼んだんだろうと、彼はそればかり気になっていたが、他愛ない話ばかりだった。だが、それでレイジは十分だった。ここには恐怖もやって来ない。彼は安全に逃れていられた。

 窓の外がオレンジ色になってきたころ、話題がとぎれると、彼は何かあせった。沸き上がる感情がある。
「そろそろ帰ります」
 彼は立ち上がろうとした。そのとき先生が、レイジの肩を抱くようにしてキスした。唇を離すと、じっと彼を見る先生の顔は目の前にあった。レイジは突然のことに動揺した。顔が火照る。本当は自分がそうしたかったのを、見透かされたような気がした。

 先生は彼のシャツのボタンに手をかけた。ボタンを順にはずしていくと、彼の腕からシャツを抜き取る。彼は反応できず、されるままになっているだけだったが、動悸が高まり、熱いものがこみあげてくる。
 次に先生はヒモを取り出し、彼の両手を後ろに縛った。
「先生…?」
 横田先生は彼の胸に手をはわせると、突然ナイフを取り出し彼に切りつけた。鋭い痛みが走る。腕に赤い筋ができ、それがどんどん大きくなり、血がぽたぽたと垂れ落ちた。レイジはよろけるように、尻もちをついた。ナイフを持った先生を見上げながら固まっていた。
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