第20話 ブラインド

文字数 1,829文字

 ブラインドの向こう側から、小さくセミの声、救急車の音、車が行き交う音などがごちゃまぜで聞こえている。レイジはぼんやりと、しかしずっと外の音を聞いていた。普段なら気にもとめないような街のどうでもいい音が、今の彼には普通の日常を唯一つなぎとめているものだった。

 少し体を動かすと、ごつい音が床を擦った。彼には首輪がつけられ、鎖は柱まで延びている。両手も縛られ、フローリングの床に転がっていた。左肩を床につけて横を向くと、肩から背中に流れる生温かい液体の感触があった。血だ。縛られた腕や手、胸にも鋭利な切り傷があり、そこから血が流れている。

 ぴたぴたと吸い付くような裸足の足音が近づいてきた。彼の目の前に、ぽたっと水滴が落ちる。見上げると、横田先生が彼を見下ろして眺めていた。キャミソールの右の肩ひもが落ちている。彼女が腕を動かすと、彼はびくっとした。また、ぶたれると思ったからだ。

 だが彼女はまるごとのトマトを口に持っていった。ひとくち噛むたびに汁が腕をつたい流れ、床にぽたぽたと落ちる。

「どうして彼は、私を捨てたと思う?まるで犬とかみたいに捨てるなんて。いつも彼の言うままにしてあげたのに、別の女連れちゃって、“まだ、おれとつきあってる気でいたの?”だって」
 先生はレイジの前にしゃがんだ。「だって」と、再び言うと、トマトをかじる。

「授業中、ねん挫した生徒が出たら、教頭先生がさっさと親に謝って来いって。その生徒はどんなに注意してもさぼってて、勝手にやったのに。私のせいなんだって」

 電話が鳴りだした。誰かが自分を探して、ここにもかけてきたのかもしれないと、レイジは一瞬思う。
「マニキュアはあまりよくないんじゃないですかとか、体育教師っていつもジャージじゃないのとか、聞いてなかったんですか?って伝達事項が私にはないとか。あげくは授業を嫌がる生徒を無理やり連れて行くことはないですから、だって」

また、トマトをかじる。
「だって」

電話は鳴り続ける。
「これって、個人の自由の尊重とかっていうもののつもりなのかなあ?それとも臭いものには蓋?」
先生はくすくすおかしそうに笑い出した。
「…わかりません」

レイジの言葉に、先生は思いきり彼の顔をひっぱたくと、首輪の鎖を持って、さらに叩きつけた。電話は鳴り続ける。レイジはなんとかのがれようともがく。
「あなたは生徒でしょ。黙って聞きなさいよ。こっちは最悪でも何でもないふりして、職員室でも教室でも廊下でも愛想笑いしてるってのに。体育なんてどうでもいいと思ってるんでしょ。適当にやり過ごそうとする大人たち、適当にただ点数とるためだけのあんたたちに、こんなに私は意味のない労力使ってるのに。彼と同じじゃない。ほんとにムダな労力使って」

電話は鳴り止んだ。

 廊下を歩く足音がかすかに響いてくる。レイジは床につけている片方の耳に聞こえる音を追いかけた。薄暗い部屋。いったい今は何時なのか、どれほど時間がたったのかわからなかった。
「ねえ…」
 先生の声がすぐとなりで聞こえた。その声に、レイジはうっすら目を開けた。視線を動かす。床に転がった空き瓶、つぶれた食べかけのトマト、開いたままの空の冷蔵庫、半裸で寝そべっている横田先生がぼんやりと見えた。

「きみは志望の大学、決めてる?」
こんなときに普段の生活のことを聞かれ、彼は何も考えられなかった。
「できるだけ偏差値の高い大学に入って、できるだけ給料がいいところへ就職して、できるだけ条件のいい結婚して、できるだけ理想的な家族をつくりたい?好きなことやるにはリスクあるもんね」

 先生は身体の向きを変え、彼に手をのばしてきた。
「あるときにね、人生の時間の長さの感覚が、実感としてわかるようになる。あなたにはまだわからないだろうけど」と、レイジの髪をなでる。
「これまでの時間から、次の10年がどれくらいか。そしてさらに次の10年がどれくらいか…。こんなものか、こんなものなんだって、わかるようになる」
彼女は転がったままの食べかけのトマトを拾う。

「昔の私はね、教師になるつもりなんてなかったんだ。どうしてこうなったんだろう。なんとなく目標もやりたいこともないまま、レールに乗っかっちゃった感じ。ねえ、志望の大学、決めてるの?」
 横田先生は無理やり、レイジの口にトマトを押し込もうとして、滴り落ちるトマトの汁とともに、彼の口をなめまわる。そして熱心になめる彼女の舌は、彼の胸へ、さらに下へと動いていった。
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