第11話 虫カゴ

文字数 3,692文字

 背後で近付く足音がする。あの長い髪のスーツの女じゃないかと思い顔を向けると、たたんだ日傘を手にしたお母さんだった。
「ヒジリ」
お母さんはあっけにとられていた。
「お父さんは?」
「店から直接来るって」
汗を拭こうとしたハンカチを手に、マシタに軽くお辞儀をしたが、彼を怪しく思っているのはありありだった。女子高生の娘と、30ぐらいの男が触れ合っているんだもんね。サヨコのエンコウの一件もあったし、それに私について自分の知らないことはないと思ってるようだったからなおさらだ。

「マシタ、さん」
私は彼を紹介した。
「夏休みにやらなきゃいけない研究のことで、植物のこと教えてもらってて。たまたまホームで会って、おばあちゃんのこと心配してくれて、いっしょに来てくれたの」
思いっきり嘘をついた。

 お母さんに未来を見たとか、キャロリーンが幻覚を見せるとか言うなんて想像もできない。今の私の内部に沸き上がる様々な混乱した感情の渦も、見せるなんてあり得ない。

彼女はめまいがするほど日なたにいる。洗濯して、掃除機をかけ、キャベツをきざみ、テレビのリモコンを押す。同じ家で生活しているのに、遠慮のない家族なのに、いつのまにかものすごく隔たった場所にいる。

彼女は私について、疑うことなく何でも知ってると思ってるみたいけど、実はまったく何もわかってない。人の心なんて簡単にわかるはずがない。笑顔の裏にどれだけのものが隠されているのかわからない。たとえ家族だって、いや、家族だとなおさら、都合のいいとこだけ見て、深く入り込まないでやりすごそうとするんだ。無意識のうちに、わからないでいようとしてる気さえする。

「まあ、それはどうもすいません。おかげさまでおばあちゃん、軽い心臓発作だったけれど、大丈夫だそうです」と、お母さんはにっこり微笑んだ。
「それはよかったですね。どうぞお大事に」
マシタも普通に大人の会話をしていた。普通に彼に会ってたら、私は彼をただのつまらない大人としか思わなかっただろう。
「あの、植物ってそういうご研究でも?」
「ええ、まあ。たいそうなものじゃないですよ。ただの苔です」
マシタは明快に、しかも当たり障りなく答える。私はなんだか、彼と秘密を共有してるみたいでドキドキした。
「そう…苔…」
お母さんはまだ何か言葉を続けたいようだ。つまり、私とはそれ以上の関係はないのかということを聞きたいようだった。本当はそれがいちばん聞きたいことで、苔なんてどうだっていいはずだ。マシタと私に、サヨコの一件が交錯してるんだろう。

 サヨコの親がすいませんと他の親にあやまったのも、お母さんや他の親たちが学校にもその説明と陳謝を求めたのも、自分たちの子供を心配して守るためと本気で思ってる。サヨコたちがしたことが、ただ学校という共通項しかない見知らぬ人々に裁かれ、いやらしい人たちの想像を誇大にさせ、晒しものにされる。

私がサヨコなら、そんなことの方がはるかに傷つくだろう。やさしいサヨコのことだから、いつでも繰り返されるお決まりの苦情と陳謝という儀式をする彼等を憐れんでるかもしれない。なぜかいつも儀式が済めばおしまいで、後に何も残らない。口では全体問題だと言いながら、実はその当人だけの問題で終わってるのに、表向きだけはみんなのことなんだ。そしてとりあえず当事者以外が苦情を言い、一番上の役職の人がとりあえず頭を下げることで、すべてを浄化し、終了したと思ってる。でも大人はそれをばかげてるとは誰も言わない。

 マシタは淡々とあいさつをして去って行く。普通に会ってたら、彼のこともそんな大人のひとりとしか思わなかっただろう。でも、彼は違う。ちゃんと私の内側をのぞこうとする。
 私が彼の後を追おうとすると、「塾の方の勉強はやってるの?」と、お母さんが不機嫌に言った。お母さんはいつもそうだった。悪い方にばかり考えてブレーキをかける。私のためっていうんだろうか。彼女は私がやることが許せない。何をしてもどんなさ細なことでも、彼女のルールにないことはいつも遮られた。彼女が今夜、お父さんと妹の前で私を非難する言葉を、思い浮かべることができる。私はこれまでいつも言われるようにしようと努力した。

 でも今は、彼についていかなければと思った。どんなにしかられようと、まずいちばんは自分のためにあろう。わかってほしいなんていわない。わかるわけないんだから、私の未来は私自身の手で、ひきずり寄せなくちゃいけないと思った。

「病院にいた方がいいんじゃない?」
 マシタがレンタカーを運転しながら言った。日差しはもうずいぶん傾いて、助手席の私の手に部分的に当っている。
「あのことを、気にしてるのかい?」彼がぽつりと言った。

 記憶の奥から前面に、遠ざからないアイラが押し出てくる。彼女がビルの屋上から落ちていく光景を何度思い出しただろうか。私は目を伏せた。片方の手で日に当ってる部分を触ると、暑さが伝わってきた。
「きみのせいじゃない」と、彼は少し間をおいて続けた。

「私のせいじゃない」
自分でも驚くほど大きな声が出た。今度はマシタが黙った。私はアイラの死をずっとひきずってる。そっと日陰に手を引っ込めた。キャロリーンという苔のせいだったら、どんなにマシだろう。

「ここを曲がる?」と、彼が少し先を指した。
 この先の二つに分かれた道路。信号はない。角を左に曲がる道へは行かず、そのまままっすぐ行って、車はゆるゆると止まった。
「なんか変なんだ」
私は気になっていることを口にした。
「今日の昼、この近くで交通事故があったんだ。そこに居合わせた男の子が、さっきの病院にもいたんだけど」
「それが変なの?」
彼は車のエンジンを止めて、私の方を向いた。
「ただの偶然なのかなって…。ホームでも前にそこの人が転落して亡くなってるんだけど、その部屋にも男の子がいたって」
「同じ男の子が?」
「それはわかんないけど」
マシタは気の弛んだ顔をした。
「でも、その人のいるところに二度もいるなんて偶然?ホームの山野さんのところにいた子供っていうのもあの子だよ、きっと」
「じゃあ、きみはその男の子が人を殺し回ってるって?」
彼は明らかにそうだとは思ってない口調だ。
「苔による幻覚作用なのかも」思いっきり嫌味っぽく言った。

「ここはね、よく事故が起きるの」
 私はなんとなく顔の向きを変えた。そこにあの家が見えた。2階の窓のカーテンが、記憶と寸分の狂いもなく同じ中途半端な開き方をしているあの家だ。

 学校帰り、角を曲がると決まってあの家の窓に目が向き、決まって同じ想像をしていた。昔読んだ本で、いつも決まった時間に窓から外を眺めていた美しい少女に恋する少年の話があった。とてもきれいな話だと思っていた。でも、実は少女には両手両足がなく、話すことも聞くこともできず、できるのは外を見ることだけだった。そのイメージの強烈さがずっと心に残っていたから、そのカーテンがいつも同じように開いた窓、その隙間に見える部屋の天井の暗さを見るたびに、その話の少女を想像せずにはいられなかった。

「思い込みすぎかもね」
「そうじゃない」
 マシタが唐突に言い、口をとがらせた。またさっきの話のこと言ってると思った。
「じゃあやっぱり苔のせいなわけだ」
私は笑ったが、彼は表情を変えなかった。さらに真剣に、顔を近付けると「あいつがね、事故を起こしてるんだよ」と、内緒話をするかのようにひそひそと言って、外を指差した。
「あいつ?」
「うん、あいつ」
マシタが指し示したのは、あのカーテンが中途半端に開いた窓だった。
「何言ってるの?」
なんか変だ。なんかとても変な顔してる。

 彼が私の髪に触れる。髪の感触を確かめるように指を動かしながら、私をじっと見ている。
「マヤがやってるんだ。おもしろがってさ」
「マヤ?」
しばらく髪をもてあそんでいた手は、やがて私の頬に、首に、肩に、胸に下りた。胸の感触をさぐっている。彼の唇が私に重なろうとして鼻が当る。私はただ驚く間もなく、状況が呑み込めずぼんやりしていた。すると今度は首を傾けて、そっとキスをしてうかがうように私を見たが、今度は激しく唇を押し付けてきた。あたりをなめまわす。
「いや!キャロリーン!」
なぜそう言ったのかわからない。でも、彼は別人だった。キャロリーンという苔がいるのだとしたら、その苔の意思が彼を支配して幻覚作用を起こし、狂わせているのかもしれないと思ったんだ。
「キャロリーン…」

 マシタは動きを止め、そして次に私を見た。呆然と私を上から下まで見る。
「どうしたんだ…」
「どうしたって…!」いまごろ驚きがやってくる。
「何があったんだ?」
彼は本当に覚えてないように見えた。
「あいつが事故を起こしてるって…」
「あいつ?」
「マヤがやったって」
あの中途半端にカーテンの開いた家を見た。
「僕が?そう言ったの?」
「ふざけないで」
「ふざけるなって…きみと少年のこと話してただけだろ」

 いったい何が起きたというんだろう。やっぱりキャロリーンのせいなんだろうか。
「あの家にマヤって人がいるのか確かめてみる」
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