第24話 瓶の底

文字数 3,724文字

 瓶の底


「なんだかなあ」
 コージがため息とともにつぶやいた。さっきからストローで、グラスの氷をかきまわしている。
「勉強の方は?」
向かい合って座っているヒジリが言った。
「それどころじゃねえだろ。レイジはヒッキーだし、サヨコはどっかへ行っていなくなったし」

 2日前、サヨコは書き置きを残して家出した。別れたと言っていた男といっしょだったのは駅で見られていた。レイジは2学期が始まっても、学校に出てきていなかった。誰もレイジには会ってなかったが、あの先生との事件のことがよほどショックなんだろうと思っていた。

「トモエはああだし、そういえばとなりのクラスの野本とかいうやつも、事故って死んだそうじゃねえか」コージは新聞の三面記事に載っていた事故を思い出した。「アイラも死んだし。まあ、ロクはメジャー契約のために東京へ行ってんだけどな」
コージはまだかきまわしている。

「なんだかなあ」と、またコージが言う。「おれたちの仲間やまわりのやつが、やたら、いろいろやばくね?」
 コージが前に身を乗り出すようにしてヒジリに囁いた時、となりの席で歓声があがった。誕生日の歌が歌われ、ケーキが出て来て、その席の誰もが大喜びで拍手して、真ん中の小さな女の子を祝福していた。

 午後1時過ぎの、広いファミレスの店内は大部分、席が埋まっていた。となりの席のような家族連れやカップル、友だち同士、仕事休憩ふうの男たち、様々な人たちがいる。
「世の中はこんなにのどかで、退屈そうなのにな」
コージが横目で見てそう言った。

「なあ、おかしくなったのは、あのときからじゃないのか?」
「黒い鞄のこと?」
「マジ、おれのせいだったりすんのかよ」
「でも、レイジはあのとき、あそこにいなかった」
「そうだよな。それにおれとおまえはやばくねえし」

「やばいよ」と、ヒジリははっきり言った。
「なにが」
「私、自分が死ぬ夢をずっと見てる」
「マジかよ」コージは頭をかいた。
「コージは?」
「え?」
「コージは何も見ないの?」
「何を見るってんだよ、見ないに決まってんだろ」と、彼は少し声を荒げた。

「あ」
 ヒジリが声をあげた。コージも彼女が見ている方を見ると、あのマシタという男がやってくるところが見えた。彼はあの男がここに来ることになっているとは知らなかったので、不機嫌になった。

「そうだ、あいつもおかしくね?あいつがここにやって来たのも、あの鞄と同じ頃だろ」
「マシタ?だから、彼はあの苔を探してるんだって」
「探してどうするんだ?ここへ来る前は何してたんだ?なんでやつが探す必要があるんだ?」
「ねえ、コージ」と、彼女が何か言おうとしたが、コージは席をたった。マシタが来るのと入れ違いになったが、彼は無視して通り過ぎた。

 コージは地面だけを見て歩いていた。他を見ようとはしない。むかついている。マシタというあの男がファミレスにやって来たこともだ。あの男は最初会ったときから嫌いだった。レイジのことが本当はあまり好きじゃないのと似ていた。なぜなら、ヒジリと親しくしていたからだ。だからさっき、マシタが来ることを自分に言わなかった、ヒジリの態度にもまた、むかついていた。だが、それだけじゃない。彼にはもっとむかつく、最悪なことがあった。

 この気分は最悪だった。「コージは何も見ないの?」とヒジリがたずねたとき、心臓を掴まれたような気がした。彼は最近眠れないでいる。といっても、ヒジリのように夢にうなされるわけではない。夢ならまだいいと彼は思う。なぜなら、意識が目覚めている“正気のとき”に見てしまうのである。

 最初に“それ”を見たのは、まさしく黒い鞄の瓶に入った、水のようなものを手にした日だった。家に持ち帰ったが、あまり気にとめていなかった。そのまま放り、テレビをつけた。夕日が画面に当たり、反射していたから見にくい気がして、半分カーテンを閉めるが、画面にはまだ反射が残っていた。
 テレビの画面より、カーテンを閉めたその影が映りこんでいる方へ目がいったとき、そこに奇妙なものを見つけた。カーテンを開けたままの半分に、人の形のような影があったのだ。不思議な気分で振り返る。が、別に何もない。

妙に気になってテレビを消す。黒い画面に反射がよりくっきりし、そこに人影が見えた。振り向くが何もない。やがて、信じられないことに画面の人影はゆっくり近づいて来るように動いた。コージは驚いて振り向いたまま、何もないいつもの空間を見続けていた。

 それからは鏡にも、浴槽の取っ手にも、水たまりにも、自転車のフレーム、車の窓にも、誰かが映る。その姿はぼんやりとして定かではないが、女のようだった。コージは恐ろしくて、できるだけそういう映り込むものに目を向けないようにした。誰にも言えない。もしそのことを口にすれば、“それ”が本当に現実にあることになってしまいそうな気がしたからだ。

 足下の石畳はきれいな模様を作っていた。その上をたくさんの足が行き交う。左右にはおしゃれなショップが立ち並んでいる。彼は足を止めると、そっと横を見る。
 人が通り過ぎる合間に見えるショーウインドウには、自分や行き交う人たちの姿とともに、動かないぼんやりとした人の形がそこにはあった。

コージにはもう、振り返って本当にそこに人の姿がないことを確認しなくても、“それ”がすぐにわかった。なぜならいつも“それ”は自分の方を見ていると、そう感じられたからだ。彼は再びうつむくと、足早に歩き出した。

 彼はそのまま路面電車に乗った。昼下がりの電車内は人はまばらで、老人や小さな子どもを連れた母親が乗っていた。電車が動き出すと、いっせいにつり革が同じ動きで揺れ始める。それは速度を増すごとにリズミカルに動いた。街のビルの間を走っていた電車が大きな橋を渡り、50分過ぎる頃には、外の景色は山や田畑、民家のある空が広い景色になっていた。

 そのとき、小さな男の子がはしゃいで電車内を走りだし、母親がひっぱって席に戻し、大声を上げた。子どもがびくつくのがわかった。叩かれるかと彼はひやりとした。叩くことはなかったが、母親がむっとした顔を子どもから背ける。彼はそんな親子を見ないように、座席の足下の黒っぽい木の床をじっと見つめた。

 彼はそのコースの終点のふたつ手前の電停で下りた。通り過ぎて行く電車の窓に、さきほどの親子の母親の方の頭が見えた。それを見やり、前を向く。そこには見覚えのある昔とあまり変わらない景色があった。

 その家は小さな坂をのぼった先にある。そこはコージの母親の実家で、今は住む人もいない。もうすぐ人の手に渡り取り壊されるため、コージは父親に、持ち出す必要があるものはないか見て来いと言われたのだった。何年ぶりだろうか。

 雨戸が閉まり、黒ずんだ古めかしい建物だ。母の親の代より前からそこに建っている。所々に苔や草が見える黒い屋根瓦が重そうに見える。2階建てだというのに低い建物は、かなり昔ふうの建築だ。建ってから百年以上にはなるだろう。こんなに低かっただろうかと、彼は思った。裏山が迫り来るようにすぐ後ろにある。そして広い敷地の目立つところに大きな桜の木があった。春には満開の花を見せてくれるその木は昔のままだった。

 玄関は横開きになっている。スリガラスが入った木枠のドアを、がたがたと開けた。一歩玄関の敷き居をまたぐと、外の明るさに慣れた目には、ほとんど真っ暗だった。カビやホコリ、樟のう、線香や油なんかが混じって染み付いたような匂いがする。

 ようやく目が慣れてきた。土間は広く、今は履く人もいない靴がいくつか転がっていた。そして、土間の板ばりの向こうには畳の部屋が並んでいるが、その畳もぼろぼろで、埃が積もっている。

 コージは躊躇したが、靴のままそろりと上がった。畳を踏むとぎっぎっとめり込む感触。居間だったところには、動かなくなった柱時計がそのままにあった。飾られていた先祖の写真や仏壇はもうない。テレビや大きなガラスの灰皿が置かれたままのテーブル、隅に積まれた座布団、生活を感じさせるそれらはうっすら白くなり、主がいなくなってからずっと眠っているかのようだった。

 だが、部屋を見回していると、彼の記憶は一気にその部屋に色合いを戻す。赤茶色の柱時計の刻む音の余韻、その時計の向かいの天井にくっつくほど高い所で額縁に入った白黒の写真の人たち…。

 裸電球に橙色に照らされるトイレまでの長い廊下。その廊下の片側全面に接した、真っ暗な障子戸の部屋。台所の小さな正方形の床板の下に深々と広がった青く塗られた壁の地下室。赤茶色の棚に、ずらりと並んだ同じ食器や朱色の細い箸。くにゃりとなりそうに薄い、くすんだ銀色のスプーン。そして、つやつやした黒い漆のお椀。鉄製の取っ手を引くと、ゴリゴリという音しかしないこげ茶の箪笥。風呂場の脱衣所に敷いたゴザの匂い。勝手口の踏み石の上に置かれたビニールの赤い草履。母屋と屋根づたいになった離れの、使われなくなった放置された大きな真っ黒いカマド。山のわき水をためている、ヤモリのいる大きな緑色の水瓶。傾きかけた何百年かの白壁の蔵。それらは鮮やかに蘇った。
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