第9話 虫カゴ

文字数 3,755文字

虫カゴ

 強い日差しが照りつける。昼下がりの道路はほとんど車が通らない。向かいのスーパーの駐車場にも、車はぽつぽつまばらにしか止まってなかった。いま、この瞬間は、どんな事件よりも、この色が飛んでしまった景色の衝撃の方が大きい気がする。

 夏休みになってすぐ、高校生が売春で警察に補導される事件があった。そのなかに友だちのサヨコがいた。カレシに誘われ、グループみんなでエンコウして金を作り、Cパーティをやるつもりだったらしい。そう、嗅ぐやつ。

 サヨコがそんなことをしていたことに驚いた。これまでそんなこと話したこともない。カレシのこともあまり言わなかったから、カレシが高校中退していたことも知らなかった。彼女の親も知らなかったらしく、今はサヨコは家から出られない状態にある。

サヨコはいったいどんな気分だったんだろう。自分の値段をいくらにしたんだろう。自転車で通りすがり、見知らぬ中年の男に「5万でどう?」と声をかけられたことがあった。一瞬何のことかわからなかったけど、次には奇妙な感情があった。その価格が自分の価値。

 体育の授業中、男子数人が倉庫でけんかをしていた。というより仲間の一人を、みんなで小突きまわしてたらしい。サヨコは石灰の入った白線引きを取りに行って目撃した。いじめられていた一人が殴りかかりもみあいになったところに、彼女がとっさに止めに入り、はずみで頬をしたたかに殴られ、転がって石灰まみれとなった。男子らは逃げ、先生が聞いたが、彼女はつまずいて転んで顔を打ったと言い張った。

「だいたいあの先生、気にくわなかったんだ。いつも人を疑ってかかるようなやつに誰がいうもんか」と、ずいぶん後にそう話して笑った。彼女は男子らをかばっていた。サヨコのそうやって、やさしさをカモフラージュするとこがもどかしくって、そして好きだった。

 それにしても強い日差しだ。この先に2つに分かれた道路がある。信号はない。角を左へ曲がると住宅地に向う。まっすぐ行くと幹線道路につながっている。このあたりは道幅も広く整備されつつあったのに、ここの数百メートルだけは2台の車が行き違うのもやっとって感じで、ここでよく事故が起きるのはそのせいかもしれない。

 家に帰る方向、あの角を左へ曲がると、正面には家がある。その家の二階のカーテンはいつ見ても同じように少しだけ開いている。いったいどんな人が住んでいるんだろう。不精な人、いいかげんな人でも、毎日決まったような幅でカーテンを途中まで開けたりしないから、いつでもそのままなんじゃないかと思う。そこに意識を感じてしまう。だからつい、私はその角を曲がると決まってその窓を見て、想像をふくらます。

 その手前まで歩いていると、色のとんだ熱でゆらゆらした景色のなかに、小学生くらいの男の子が虫カゴを揺らしてこちらに歩いてくる。のどかで、だけどまるで干上がったような風景に、虫カゴはなんだかあり得ない気がした。

その男の子がふと立ち止まった。道路の反対側から出て来た人がいる。白髪で70くらいの、エプロン姿の女の人がスキップをしていた。背筋をのばし、両手足を元気に跳ね上げている姿に思わず笑いがもれる。

けど、次の瞬間、私は自分の顔がこわばるのがわかった。その女の人は笑っていた。車が走ってくる。私は吹き出しそうな顔のまま止まってしまった。女の人は笑って、スキップのまま道路に飛び出たのだ。急ブレーキの音。同時に前で立ち止まった男の子が悲鳴をあげて昏倒した。私は目だけを動かして左右の事態を追った。

 少しの静寂があったと思う。はねてしまった車が少し先で止まりドアが開いたとき、人々が集まって来た。私が男の子の側へかけよると、彼は目をあけた。
「大丈夫?」
彼はじっと私を見た。10歳くらいだろうか。
「うん」
男の子は目をこすって起き上がった。私は道路に転がっていた虫カゴを拾いながら、人だかりの方を見た。その向こうからスーパーの袋をさげた女性が、あわてて道路を渡ってくる。その後ろで、ひとりの白いスーツ姿の女がじっとこっちを見ていたが、そのときは気にもとめなかった。

人だかりの中、はねとばされた女の人の靴が脱げた小さい足の裏が見えたが、ぴくりとも動かなかった。
「あの人…、死んでないよね」と、男の子が怖そうにつぶやいた。
「大丈夫よ、きっと」


「ヨシちゃん」と、スーパーの袋をさげた女の人が男の子にかけよってきて、私に笑顔を見せた。
私は空っぽの虫カゴを、男の子に渡した。

 それからバスに乗っても、憂鬱な気分のままだった。男の子には大丈夫だと言ったが、あのはねられた人はもう死んでると思った。

 以前、踏切ではねられた人を見たことがある。駅の近くだったから列車のスピードが落ちてたんだろう、切断されたりすることなく、踏切の数メートル先、線路の脇の草地にうつ伏せに倒れていた。自転車がぐしゃぐしゃだったけど、その人は怪我も血も見えなかった。ただ、ぜんぜん動かなかっただけだ。

そしてまわりで、ある距離以上は近付かず、柵越しに眺めている人たちがいた。ときおりとなりの人と何か話している。倒れている人がもうすでに死んでいる事実と、人の死も日常のありふれた光景にすぐ溶け込んでいくことを知った。そして私も踏切を渡りながら、一瞬で人の死に触れ、渡ってしまうとまた一瞬で日常に戻った。

 いつもと変わらない毎日だと思っているけど、少しの間にも、隣の守木さんの奥さんは出て行き、マシタという男がやって来た。コーセイが転校し、アイラが死んで、ロクはライブのために新しい曲を完成させ、お父さんは市街地の小さな量販店の店長になり、ナオくんの一家は存在しなくなり、トモエはオカルトの本を買い集め、妹のミチルは新しいサイトで友だちを作り、レイジは親に内緒でバイトを始め、お母さんは近所のカラオケ教室に通い出し、コージはまだ補習のために学校へ行ってる。

少しずつ、やがてはすべてが変わってるだろう。この世の中に変わらないものなんてない。小学生のとき、自分の体と同じくらいの大きな犬のぬいぐるみを買ってもらったけど、やがてそれは押し入れでビニールに包まれていた。好きな男の子にもらったハートの片割れペンダントも、いつしかどこかへ忘れ去った。欲しいものをいくら手に入れても、すべてはすぐ色褪せて、ホコリかぶってしまうものなんだと気付いた。

アイラが死んだとき、あれほど悲しみショックを受けてたみんなも、いろいろと忙しい日々の中で、いまはもうアイラのことを口にすることはない。死者は過去の時間に流されて、どんどんと遠ざかっていくだけだ。そしてときおり、うっすらと永遠に変わらない姿が思い出されるたびに、以前とは違う思いを抱かせる。生きている側が時間とともに変わっていくからだ。まだ十代でこんなことを思うなんて、なんか滑稽で、悲劇だよね。

 バスを降りると、歩いて数分で辿り着く、小高い丘のような山の上にある老人ホームに向かった。おばあちゃんがそのホームに来て、もう3年になろうとしている。おばあちゃんの人生からみると、私との接点はその長い年月のごく一部だ。

でも、昨夜もまたあの夢を見た。真っ白い壁が続く廊下を行くと、ドアが少し開いている部屋があった。のぞくと私自身がそこにいて、壁にはりついて怖れおののいている。そこで必ずドアが閉じられるが、そこには私を殺そうとしているものがいるはずだった。

忌わしい私が死ぬ夢。もし私がごく近いうちに死ぬなら、私にとっておばあちゃんは人生の全部がいっしょだったといえる。そんなことを思ってはっとした。ばかげてる。

 玄関で靴を脱ぐとき、数人の入居者がひそひそ話しているのが聞こえた。
「山野さん、殺されたんじゃないの」
「峰さんが一度離れて戻ってくるまでの5分もたたない間に、窓から飛び下りられると思う?山野さん、足が痛くて歩けなかったのに」
「ここんとこ、やたら変よね。その前はマミさん、三郎さん、篠田さん…本当に病気や寿命でぽっくりいっちゃったのかね」

 そのとき、玄関の外を通り過ぎる人を見た。マシタだった。『予言者』に会いに行って、彼をおいてそのまま帰って、あれ以来だった。まさか、こんな場所で会うことになるとは意外だった。靴をひっかけ、飛び出て後を追った。

「マシタ…さん」
彼はやはり驚きもせず振り返った。前に見たときのように、白いカッターシャツがまぶしい。
「どうしてこんなとこにいるの?」
さっきの聞こえた話を思い出し、少し不安になる。
「きみは?」
「おばあちゃんがここにいるの」
「ああ、そういうことか」

「きみは何か知らないか?ここで最近起きていること」
やっぱり前に何かあったんだ。『予言者』にたずねていたことを思い出す。彼はいったい何を調べているんだろうか。
「警察の人?」
「いや…」
彼は首を横に振ると、髪をかきあげながら、何だかしばらく迷ってる様子だった。
「ヒジリ、きみに前にこの街で増えた犯罪は、単なる偶然じゃないといったね」

このあいだいっしょにタクシーに乗ったとき、ラジオで殺人事件を聞いた。時代が犯罪を増加させているのは確かだろうと思う。けれど、この街の最近起きた事件は時代のせいじゃないと、マシタは言っていた。
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