第6話 流木

文字数 2,207文字

 逃げ回る足音、そして押し殺したような悲鳴。廊下を音のする方へ向う。ドアが少し開いている部屋があった。声はそこから聞こえた。のぞきこむと、私自身が壁にはりついて、怖れおののいているのが見えた。その私に近付いてくる何者かの影が見えたかと思うと、ドアが勢い良く閉められた。
 
「ヒジリ!」お父さんが叫ぶ。
猛スピードで走る車。
女が私の腕を掴む。
炎につつまれる。
友だちが笑っている。
3人のお婆さん。
胸を露にした絵の女。
暗闇に閃光がはしる。
「きみらは殺される」
レンタルビデオ店の男が大笑い。
奇妙な音。
「僕はきみのものだよ」
見知らぬ大人の男が静かに言う。

 はっとして目が覚めた。変な夢だった。夢なのに、やけにはっきりと見知らぬ人の顔が見えたのが妙にリアルで、不安がぶり返していた。

 家を出ると、「おはよう」と声がした。隣の家の守木さんの奥さんが、洗濯ものを干しながらにっこりと微笑んだ。奥さん、失踪したんじゃなかったんだと思いかけて、突然記憶が蘇る。そうだ。今日が7月6日、奥さんが失踪した日なんだ。こうやって挨拶したのに、夕方にはいなくなってるのかと思いながら、もう一方で、そんなことがあるんだろうかと、どうしても信じられないでいる。

 それから一気に例のビルまで走る。アイラが落ちて死んだはずのビル。足もとを見たけど、それらしいシミはひとつもない。

あのとき、意外に思えるほど大きなドンという音がした。人が当たる音と思えないようなすごい重い音。飛び散った脳みそは、ビルの屋上からのロングショットでは、アスファルトにこぼれたちょっとしたゴミくずだった。自分があまりに冷静に眺めていることの方がショックだった。

死体には深刻さと滑稽さが同居している。人の死は恐ろしくなければならない、悲しくなければならない。だけど、人にどう見られようとおかまいなしのその姿形は、歪なコミカルさも感じてしまう。そこに倒れているのは友だちのアイラだとわかってるのに、もう知らないものになってしまった、そう思ったはずだった。ほんの2日前のことだったのに。

 足音がして顔を上げると、向こうから男の人が歩いてくるのが見えた。どこかで見た顔だった。すぐに彼が夢で『僕はきみのものだよ』と言った人だったと思い出した。

そして、アイラの死体のまわりの人垣の中にいた記憶が蘇る。不思議なことに、アイラが落ちて死んだことは覚えているのに、そこに至るまでが空白で、所々がふとした拍子に蘇ってくる。

 私があまりじっと見ていたせいかもしれない。その男の人も、また私を見た。
「ねえ、おとといもここを通った人よね」
すれ違いざま、その男の人は驚いたふうもなく立ち止まった。ロクやコージたちとは違う落ち着いた雰囲気。20代か、30歳くらいかな。ちょっと優雅ってかんじ。大人っぽいコーセイを思い出した。
「おととい…ここに人が血を流して倒れて、死んでたよね」
彼は私をじっと見た。

「死んでたよね」もう一度言う。
「そのとき僕を見た?おととい、ここで?」
「私と目が合った」
「話を聞かせてくれないか?」
男は鞄を地面に置くと、手帳を取り出した。
「えーと…きみはなんて呼べばいい?」少し子供っぽいたずね方だ。
「ヒジリ…」
私はうなだれたまま、もしかしたらおかしいこと言ってるのは自分なのかもしれない、夢で見たことが、ごっちゃになっているのかもという気がしてきた。

 考えながら、男の人の鞄を眺めていた。航空会社の荷物預かりタグがついている。
「飛行機で来た?」
「え?」
彼はよくわからないふうだったので、タグを指した。
「ああ、そう。えっと、あそこに泊まるんだ」
男が目を向けた先に、名前の見えるホテルの建物があった。

「来たの、今日?」
なんてことだ。アイラが死ぬなんてやっぱり夢だったんだ。この人と会ったのも初めて。怖くなり走り出そうとして、「待って」と男に手首を強く握られた。冷たい手だ。私はその手を払いのけ、振り返らずに走った。

 橋のところまで逃げて来たとき、やっと荒い息を静めるためにゆっくり歩き出した。二車線の道路を車がひっきりなしに行き来している。20歩ほどで渡りきれるくらいの橋の真ん中に立ち止まり、一息ついた。
 下を流れる川は黒い色をしている。以前は魚も住まない川だったけれど、最近はずいぶんマシになったと思う。自転車の車輪と、泥にかたまったガラス瓶くらいしかゴミは見えない。川のゆるやかな流れは、両面にへばりつくように立ち並ぶ家並みの形をゆらゆらと映し出していた。眺めていると、こんな汚い川でも、知らないとこのきれいな小川よりずっと心が落ち着く。川面は天気や時間でずいぶんと違って見える。夕焼けに赤や黄色、黒に青、色のプリズムに揺れていたり、リズミカルに雨粒があちこちに波紋を作っては川が消していくようなとき、それは毎回違うから見て飽きなかった。

 さっきの人、あの顔に見覚えがあったのはなぜだろう。夢と同じ顔に会うなんてありえる?
 暗い川の中に私が見えたが、すぐ向こうの私は揺らめいた。ダンプがエンジンをふかして通り過ぎ、足元が揺れる。川の水はずいぶん少なく、川底に溜まった泥が臭う。もうすぐ台風がやってくるとしたら、泥も少しは流れていくだろう。

もし本当だとしたら。

でも、今確かなのはアイラは死んでないし、台風は来てないし、レンタル店の店員の予言は当たらないってこと。すべては夢なんだ、きっと。
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