第13話 虫カゴ

文字数 5,202文字

 おばあちゃんはかなり良くなったらしいが、緩慢な動きや不安定な歩き方を見ると、良くなった感じがしない。高齢のためだとわかっていても、なんだか心配や憂鬱やあきらめや、そんな気分が蔓延してくる。

病室を出ても、廊下をいろんな患者が歩いている。車椅子や松葉杖の人、点滴をぶらさげている人…。

- じゃあ、あなたの身体を、別の誰かが勝手に使ったとしても? -

ふと、マヤの言葉を思い出す。もし、私がおばあちゃんやこの患者の人たちの身体を使えたら、どんな感じなんだろう。私のように、軽く動けるようになれるんだろうか。それとも私が、思うようにならない身体に四苦八苦するんだろうか。そして、もし私がアイラやサヨコになり変わってたとしたらどうだっただろうとも思った。

ばかげてると苦笑した。現実に引き戻され、上を見上げる。ランプが1つの階に止まったままだったエレベーターがこの階に向かって、ようやく動き出したようだった。

 きのう、サヨコに電話した。かけるのにためらいがあったけど、つながったとたん、まるであの事件はなかったことのように話してしまう自分がいた。サヨコもまた、いつもの感じでしゃべっていた。彼女はそんなに落ち込んでるふうでもなかったからほっとした。トモエから聞いたところによると、カレシとは本当に別れたらしい。もちろんサヨコの親が許さないだろうけど、サヨコ本人がそう決めて、すっきりしたと言ってたらしいから、そういう事情のせいかもしれない。

でも、私がほっとしたのは、とりたてて何でもない話をして、肝心のところを無事にやり過ごせたからかもしれない。アイラのときと同じだった。アイラが死んだときも、みんなしてその話を避けた。アイラという名前のコが、ここにははじめからいなかったみたいに。

私たちはみんなそうだ。そのまま家には帰りたくなくて集まるくせに、本音に触れるような話はしたことがない。みんなして本当のことは言わないんだ。だから話の語尾に「しようかなぁなんて」とか「してみたくない?」とか「してみよう、みたいな」とか、いろいろついていく。その微妙なとこで、いろいろ察しようとするクセがついている。

 エレベーターがようやく開いた。うつむいたまま乗り込もうとした私の頬に、何か雫が跳ねた。思わず頬を触ってみると、手には赤いものがついている。血だ。あわてて頬をさすりかけたとき、目の前を何かが横切り、エレベーターの壁にいくつもの音をたてた。そこには血のしぶきが線を描いて当たり、音をたてていたのだ。

そして、なにか声のような、ぼこぼこと水が湧くような音がして振り向くと、パジャマ姿で点滴をつないだままの男が、首すじから血を溢れさせて、その中に立っていた。必死で溢れる血を押さえているのかと思ったらそうじゃなかった。自分でハサミを首に突き立てて、さらに深く押し込もうとしているのだった。血がますます飛び散っていく。

私は思いきり叫ぼうとした。でも、本当にショックのときって、声が出ないんだ。ただ、足に力が入らなくなるのを、無理やりに転がるように外へ飛び出た。振り向くと男が、もう本当に赤くぐしょぐしょに染まったパジャマで、それでもよろよろと出て来ようとする。一歩足を動かすたびに、血がぼたぼたと大きな塊で落ちる。そして足でこすったねっとりした赤黒い跡が伸びる。首すじのハサミを掴んだままの男は表情のない顔だけど、目は何か感情を帯びて違う感じだ。どこかで見たことがあると思った。

そして、男は手も出さずにそのまま頭から倒れ、釣り下げられていた点滴が大きな音をたてて転がった。ようやく他の人たちも気付き、悲鳴があがった。一斉にその階の人たちが反応し始めた。誰もが男の方へ向いているなか、私は反対に走った。恐怖にかられて逃げ出したんだ。足ががくがくして、うまく走れない。

あの男の人にいったい何が起きたんだろう。そうだ、と思い出した。あの男の人の目は、この間、車に跳ねられて死んだ白髪の女の人のそれと似てたんだ。恐怖に怯えるような目だ。

 廊下の先、横に椅子がいくつか並べて置いてあり、人が一人横になっているのが見えた。足が止まる。私は少しずつ様子をうかがいながら、近づいていった。子供だ。

それはあのヨシちゃんと呼ばれていた男の子だった。固く目を閉じて、椅子に寝ている。あの虫カゴを持ってたときと同じだ。白髪の人が車に跳ねられ、彼も倒れた。白髪の人が大きく手を振りスキップをしていたその光景が、病室からスキップで出て行った男の子と重なる。まさか…。

 男の子がぱちりと目を開けて私を見た。
「ねえ、キャロリーンてだれ?」

寒気が走った。あり得ない。何で。私はそのまま行き過ぎた。最初は歩いていたけど、どんどん走りだした。私の想像したことが本当だったらどうしようと恐かったんだ。

途中で看護婦さんにぶつかった。看護婦が落とした書類を拾うのを、あわてて手伝う。が、そのとき看護婦さんは私の腕をぎゅっと掴んだ。
「ねえ、マヤの他にもいるの?だれ?キャロリーンて」

- マヤがやってるんだ。おもしろがってさ -

 マシタが私の髪に触れ、感触を確かめるように指でもてあそびながら、そう言った。あれは、彼の身体を支配していたのはこの男の子だったんだ。必死にその腕をふりほどき走った。恐ろしくてどんどん走った。目の前の階段をそのまま一気に駆け上がって行った。
階段を上がり屋上に出ると、風がすりぬけた。屋上はアイラの死を思い出させる。

屋上で洗濯物を干していた女の人が振り向いた。思わず後ろに下がる。その人はにっこり会釈した。ほっとして壁にもたれる。

屋上一面の洗濯物が風にはためいている。空には雲が少しあるだけで、濃い青空だった。

「いいお天気ねえ」と、気持ちよさそうに、女の人が洗濯物をたたいた。夏の風は暑いけど、乾燥しててさっぱりしている。

でも私はさっきのことで頭がいっぱいだった。信じられなかった。本当に人の身体を乗っ取ることなんてできるんだろうか?あの少年が、白髪の女の人を車にはねさせたり、ホームの山野さんという人を飛び下りさせたりしたんだろうか?そんなことをいったい誰が信じるというのだろう。

「洗濯物もこれならよく乾くわ」
女の人が微笑んだ。
「誰かのお見舞い?」
「ええ、まあ」曖昧に返事をした。

「ねえ、見て。あそこ。新しいビルが建ってるけど、どんな店が入るのかな?」
女の人が振り返って、風に乱れる髪を押さえながら、はしゃぐように私を手招きした。
「あれは、マンションが建ってるんだと思います」
「へえ、そうなんだ。あんなとこに住むなんて、見晴らしよくていいわね。見晴らしのいいとこって大好き」
「ここもいいですね」
話しかけられて、どうでもいい会話をする。

「そうよね」と、女の人は微笑み、近づいた私の肩に手を置いた。
「あの…」 不安がよぎった。
「どうしたの?」
「離してください」
「なに言ってるの?」
女の人は微笑み、私の肩に置いた手の力が強くなった。

「死ぬごっこだよ。すっごくこわいよ」と女の人が、いや、あの男の子が笑いながら言った。
「きみがみんなを殺したんだ!」
「せっかく楽しんでたのに、マヤがジャマするんだ。いけないよね。人のジャマしちゃ」 と、口をとがらせて私をフェンスに押し付けた。

「おねえさんのことは好きだったのに。おねえさんがいけないんだよ。ボクにヘンな興味を持つから」
女の人に入った少年は私の首を締め付け、フェンスから外に上体をのけぞらせる。
「こんなことしたくないんだけどな。なんでかなあ、おねえさんにはなれなかったから」

 そこへ初老の男の人が走ってきた。地面には袋からこぼれた果物が転がっていた。
「やめなさい!」
男の人がその女の人を押さえ付けもみ合いになり、私の首はようやく解放された。女の人は男の人に押さえ込まれたとたんに、動きが止まったかと思うと、驚いた顔をした。そして恐ろしそうに声を上げて走って行った。

「大丈夫?」と男の人が聞いた。私はまだ安心できなかった。もしこの男の人にあの少年が入っていたらと思うと、あとずさりした。

「まったくあのコは…」と、男はつぶやいた。はっとした。さっきの人は中年の女性の中が別人だと知っている。
「だれ?」
「気をつけて。あのコは危ない…」
そう言ったとき、男の人は自分の首を苦しそうに押さえた。

次の瞬間、男はぼんやり私を見て、あたりを見回した。男は不思議そうに、急いで果物を拾いに行く。不吉な予感がした。私は男の子を探して階段を駆け下りた。

 母親と少年は病院の玄関を出て、車に向うところだった。少年は歌いながらスキップして車のところへ行く。
「ヨシちゃん、おじいちゃんにさよなら言った?引っ越したら、あまりもう来れなくなるんだから…」
「うん、ちゃんとしたよ」
母親も笑いながら車に乗った。ヒジリが追いつく前に車は動きだした。

「どうしたんだ?」
 ちょうどそのとき、マシタが車から下りながら声をかけた。私はあわてて彼に、少年の乗った車の後を追うように告げた。

「どうしたんだ?」
「あの男の子が殺した!」

 今にして思えばすべては思い当たるのだ。

『あの人、死んでないよね』と彼は言った。白髪の女の人が車にはねられたときのことだ。心配してると思ったけど、あれは死んでないことを残念がってたんだ。

老人ホームでも動けない人を動かして、死ぬごっこをして遊んだ。彼にとってはすべては遊びだった。彼の犠牲になる人たちは、まるで彼の虫カゴに入れられた虫だった。彼等の命は、男の子の思いひとつにかかっていたんだ。

 マシタの車が、少年の乗った車に追い付いた。そのとき、彼が突然ハンドルをきった。他の車とぶつかりそうになる。私は必死でハンドルを取った。
「マシタ!」
彼は口をとんがらせている。
「ジャマしないでよ。もう終ったんだから」とマシタが、いや、あの男の子が言った。

「もうやめて!お願い!彼から出てって!」
「じゃあ、もうジャマしない?」
「しない!もう追ったりしない!お願い!止めて!」
ハンドルを押さえ付けて、必死に叫んだ。

「何するんだ!」
 マシタが私のハンドルを握った手を払い除け、あわてて急ブレーキを踏んだ。
「危ないじゃないか!」
後ろの車が、けたたましくクラクションを鳴らした。前方を見ると、後部座席から私をじっと見ている男の子の車が、遠くなっていくところだった。彼は少し笑ったように見えた。

「いったいどうしたっていうんだ」

 彼はおそらく信じないだろう。彼だけじゃない、手も触れずに人を殺せるなんて、誰も信じない。でも、ある意味、手も触れずに人は殺せる。言葉や態度という切れ味のいい凶器で、人は簡単に殺せるんだ。私の発した言葉の後、ビルから勝手に落ちて死んだアイラのように。

「送って行くよ。マヤにチケットを持って行くんだろう?」と、彼が微笑んだ。

 空が急に曇りだし、辺りはいくぶん暗くなった。この先の二つに分かれた道路。信号はない。角を左へ曲がると、中途半端に開いたカーテンから、マヤが顔をのぞかせていた。暗くて表情まで見えなかったけど、私は手を振った。彼女も手を振った。

 マヤがカーテンを中途半端に開けていた意味が、今はわかる。彼女は世間と離れながらも、あきらめきれずに何とか関わりをもとうとした。男の子が人の生死をもてあそぶのを、見て見ぬふりはできなかった。あのカーテンのように中途半端に、恐る恐る人に手を差し伸べたんだ。

人の身体に入ったって、その人と一体になれるわけじゃない、そう言った彼女だからこそ、人との共鳴を、理解し合える人を誰よりも求めていたんじゃないか。私だってそうだ。もしかしたら、サヨコだって本当はそれが欲しかったのかもしれない。

 車を家の前に止めると、買物袋を下げた数人の女性が門の前で、ひそひそ話していた。
「不登校だったんですって」
「そういえば暗いコだったじゃない?あのマヤっていうコ…」

「どうかしたんですか?」
マシタが声をかけると、女性らは困った顔をした。

「首を吊ったんですって」
「まだ中学生だったんでしょ?そんなに早く、自分から死ななくてもねえ…」

私は驚いて顔を上げる。二階はカーテンも窓もきっちり閉じられていた。マシタと私は驚いて顔を見合わせる。

 病院の屋上で、男の人が首を押さえてもがいたのを思い出す。マヤが男の人に入ったすきに、あの少年がマヤ本人の身体に入り首を吊らせた。だって、好きなロクのライブのチケットが手に入るっていうのに、自殺するわけないじゃない。

「彼女は私を助けてくれたんだ」
 私はポストにチケットをそっと入れた。

夕立ちがきそうな空の下、セミたちが一日の最後を惜しむかのように、けたたましく鳴いていた。
      
 虫カゴ   おわり
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