第29話 Sign

文字数 5,466文字

Sign

 おれは自分の持ち物には、必ず名前を入れる。この服も、歯ブラシ、靴、いろいろなものに。週に2回交換するというタオルやシーツにも、名前を書く。名前を書くのは、爪の間に汚れを残しては絶対だめで、なくなるまで、何度も手を洗う必要があるのと同じことだ。

 おれは物心ついたときは、もう集団の中にいた。あんたはおれにいつもこう言った。
「このおもちゃはね、×××くんの物じゃなくて、みんなの物よ」
「このクレヨンはね、×××くんの物じゃなくて、みんなの物よ」
「この本はね、×××くんの物じゃなくて、みんなの物よ」
「この鞄はね、×××くんの物じゃなくて、みんなの物よ」

なにひとつ、自分だけの物なんかなかった。それは神様が許さないから。物はみんなに等しく与えられるべきもので、それを自分だけ所有したがる欲張りは罪人だから。あんたはいつもそう言って、やさしく微笑んだ。

 でも、どうしても物を自分のものにしたかったから、消しゴムをひとつ盗んだ。そして消しゴムに小さく自分の名前を書いた。消しゴムを使って名前が消えるとまた書いた。何度も繰り返した。名前を書き込むことに熱中するおれ、「間違ってる間違ってる間違ってる間違ってる」と言い続けるおれ、いつも「おれ」と「おれ」がいたんだ。


間違っていたんだろうか?


 いま、おれは閉じ込められてる。四角い箱に、ずっと入れられたままだ。ときおり見知らぬやつがのぞきこんで、おいしそうな罠をしかけていくこともある。おれがその餌に手をのばせば、餌食にされるんだ。くそ、おれを動物扱いしやがって。なんとか逃げ出さなくては。このままここにいたら、きっと殺されてしまうんだ。

だから木工用ナイフを手に入れたときっていうのは、希望の光がきらきらと降り注ぐような感じだった。このナイフにも、もちろんおれの名前を書いた。だからごきげんだ。これでうまくやれそうだ。

 人生について考えられるようになるには時間がかかる。まして味わえるようになるには、ほど遠い。「人生」なんて。なんて大げさでかっこ悪いんだ。その始まりってやつは生まれたときなんだろうが、でもおれは、自分と自分以外という意識を初めてもったとき、それをおれは自分の人生の始まりとした。

 きっかけはばあちゃんの死だった。北枕に寝かされたばあちゃんは、うっすらと目を開けていて、いまにも言葉を発しそうだった。見ためはいつもと変わらないのに、いくらおれが泣いてもばあちゃんは何も変わらなかった。何もいわず、何も見ていず、何も感じないばあちゃん。おれがこんなに泣いているのに。おれと同じだったばあちゃんは、もうこの身体の中にいない。存在していないんだ。

 やがて、ばあちゃんは村の習慣で土葬された。盛り上がった土。あの下の棺の中で、ばあちゃんは眠ったような姿のままでいる。それはもうばあちゃんじゃない。人形なんだ。

カンカン照りで、セミの声がふりしきるときも、白くなるほどの雨のときも、盛り上がった土はそのままにあった。でもその続きはわかる。

セミとりに行った森で見つけたタヌキの死骸、おれは怖いもの見たさでそこを通るたび観察した。

ばあちゃんはしだいに色が変わっていく。膨らんでいく。棺が割れんばかりに、その狭い空間を埋めつくすようにぎゅうぎゅうに膨らむ。やがて身体の穴という穴から水分が、養分が流れ出ていく。目玉は転がり落ち、鼻の軟骨も溶ける。内側から虫がわき、外に溢れ出てきて、肉を食べ、養分を吸っていく。棺の木とともに腐っていく。そしてある日突然、盛り上がっていた土が重い音をたてて沈み込む。

 それはばあちゃんの形をしていた人形、ただの人形なんだ。ばあちゃんじゃない。おれじゃない。そうだ。あれはおれじゃないんだ。


 嘘だったじゃないか。みんなが同じ、みんなが一緒だなんて。そのとき初めて、おれたちの神様が嘘つきじゃないかと疑った。そのときから、本当の人生が始まったんだ。


 人生の始まりの後も、本当のおれは息苦しくて窒息しそうだったが、表向きはちっとも変わらなかった。あんたはおれがしたいことをし、言いたいことを言うと、病気になるからね。愛情溢れる言葉でおれを埋め尽くす。おれはそれに飼い慣らされたおとなしい犬だった。

完璧な秩序と調和。迷いや恐れの入る余地もない日々。かつて、人生の始まりに味わった「死」は、ずいぶん遠い存在となり果てた。

 けど夜に時々、おれの所に訪れるものがいる。落ち葉の湿った音をたてながら近寄り、おれの身体を這い回り蠢くおびただしい虫たちが、身体を縛り付けて動かなくする。暗闇の中、養分を求める幼虫たちが身体をくねらせて、枕元に忍び寄ってくる。首筋から耳たぶ、顔へと這い上がってくる気味悪さで目がさめる。

 そんな朝は、光の中で布団の中を確かめて、そんな痕跡がひとつもないことにほっとしたんだ。

 いつからだったろう。自分のいる場所が、神様がまちがっていることを確信したのは。

 小学4年生の頃だったかな。おれは絵を描くのがとても好きだった。マンガをノートに描いていた。いつも途中までは描くけれど、途中でいつも終わっていた。物語の最後はこうと決めているのに、ちっともそこまで辿りつかない。

クラスにすごく絵が上手なやつがいた。絵だけじゃない。勉強も、スポーツも、何でもできた。だから自然にみんなの尊敬を集めて、そいつはいつもみんなの輪の中心にいた。友だちを思いやり、いつも自然体でさわやかだった。

おれはそいつに憧れた。そいつがマンガを描いていたノートを借りた。そいつのように絵も上手く描きたいと思った。だからそのノートの裏におれの名前を書いて、ずっと持っていた。おれは単純にうれしかったんだ。

 ところがある日、机に紙きれが置かれてあった。そいつからだった。誰も教室にはいない。みんな、いつものように校庭でドッヂボールをしているはずだった。

 その子がおれにあてて書いた文字があった。

僕のノートを返してください
変なところにいるきみとは、
やっぱり友だちになりたくありません

ショックというより、頭がまっしろになった。それでもおれはその事実を受け入れられないまま、いつものように校庭に走った。

みんなはドッヂボールをしていて、そいつもそこにいた。やっぱり中心で活躍しているいつものままのそいつだった。おれはその中へ入っていった。強いそいつにボールを当てられ、どんどん人が減っていく。喜んで夢中で逃げまどっていてがく然とした。そいつはおれだけをまったく無視して、ボールすら投げつけなかったんだ。

 そのうちチャイムが鳴り、みんな急いで教室に戻る。みんなの冗談に笑顔を浮かべながら、一緒に走っていくけど、だんだん遅れ、やがておれはひとり校庭の隅に残っていた。涙が溢れて止まらなかった。土ほこりに汚れた靴に、涙がぽたぽた落ちるのをただ見ていた。

 それからそいつと話をすることも、視線を合わすこともなかった。そして、クラスのやつらたちとの写真では、いつも端に写るようになった。姿を消しさってしまいたかった。あやまることも、非を認めることもせず、ただ逃げ出したから。

 人に嫌われる、反発される、排除される。そんなことは初めてのことだった。おれの住む世界の中では誰もそんなことしない。ノートだってやつの物じゃないし、おれがいくら名前を書こうと、おれの物という証明には絶対ならない。神様の前ではみんな平等なんだ。

なのに、外では違う。外の基準では、悪いのは自分だと頭では思う。でも感情は相手への怒りや憎しみしかない。

 そのことがおれを変えてしまった。あんなに恐れていた、夜に訪れる虫たちのように、おれは自分自身を地面に這いつくばらせたのだ。

 中学に入ると、新しい制服、新しい鞄、教科書やノートがうれしくてたまらなかった。新しい本の匂いをかぐと、すべてがこれからスタートって感じで、何もかもがここでいったんリセットされるような気がした。

 おれはその全部に得意気に自分の名前を書いた。あんたはおれが中学へ行くのも、自分のための制服や鞄や教科書を持つことも嫌がった。だけど、おれはできるだけ外に行きたかった。外では神様も目をつぶってくれるんだ。おれの物を持って行けるんだ。


 でも、人が恐くなった。おれを嫌っているんじゃないだろうかという不安や疑いがつきまとった。だから学校でも、必要以上に人の輪に入っていかなかった。

 新しいクラスでも、すぐにグループができていった。小学生の時のあの優秀だったやつのように、どこにでもリーダー的資質を持ったやつがいる。やつらたちは自らはグループを作るとか、自分がリーダーになるとかそんな意思はなかったが、みんなの話をよく聞き、的確にいい方向へ導ける者たちだった。そして明らかにおれとは違う人種だった。

そういうやつのまわりには自然と人は集まるものだ。だけど、おれには近付けなかった。やつらに近付くほど、おれの心の湿った暗いところが照らし出されるようで恐かったからだ。

 おれは2人のやつと気が合った。クラスには顔見知りの小学から一緒のやつたちがたくさんいたが、2人とも県外からの転校生だった。親の仕事で何度か引っ越しをしていた2人は同じ雰囲気を持っていた。どんなにふざけてても冷めてるんだ。ほどよい距離感が、おれにはよかった。安心できたんだ。けど、ある時の出来事から、少しずつおれの毎日は変わっていった。

 おれは相変わらずマンガを描くのが好きだった。その2人とふざけて絵を描いていた。ある日、ふざけて女の裸の絵を描いていたのを女生徒に見られ、その日の終わりのホームルームの時間に、その女生徒が先生とみんなの前で言った。

「××くんが裸の絵を描いてました。いけないことだと思いまーす。反省してください」
おれの名前だけがあげられ、みんながげらげらと笑う中、いっしょに描いてた彼らを見たけど、彼らはただ困った顔で苦笑いしていた。そう、そんなに深刻じゃなかった。みんなふざけてるようだった。

おれは席を立たされ、「もう裸の絵は描きません。すいませんでした」と言った。みんな笑ってる。先生も「もう描くんじゃないぞ」と笑ってる。けど、おれは笑わなかった。何かが心の中に芽生えたのを感じた。

 それからよくクラスの誰かれとなく、「スケベ」とか「いやらしい」とか「神様がゆるしてくれるの?」とか「あそこでもそんなことやっていいの?」とか言われた。

 みんなは、おれが暮らす集団生活の場所を、言葉にするのも嫌なように「あそこ」と言う。ふざけてるのはわかってたけど、心の中に芽生えたものはどんどん広がっていく。転校組の2人もいっしょに笑ってた。そしておれは誰とも話さなくなった。

 それからは何もかもを拒否した。学校に行かず、神様に見えない場所へと行った。そこではすぐに親しい仲間ができた。携帯を掛け合うこともなく、個人的な事情や生活を聞き合うこともない、その場だけの愛すべき「仲間」だった。

ゲームしたり、女の子と遊んだり、金を脅し取ったり、仲間の所に泊まり込んだりした。

仲間の家でテレビとかぼおっと見てると、家族が食事してる光景とかある。そんなときは不思議な気分になる。それが家族の普通の、当たり前のことなんだと言われるとなおさらだ。

おれは生まれてこのかた、大勢が食器をトレーにのせて料理を順番に入れては席につき、全員が着席したら、お祈りしての食事しか知らない。

いや、そうじゃない。確か7歳の頃までは、テレビのような家族の光景だったらしい。けど、仲間たちは逆にひとりきりの食事とか、決まったようには食べないとかで、それはそれで不思議だったけど。

 こんなに神様を疑っても、嫌っても、やっぱりどこかで恐れている。どうしてもおれを作っている細胞につけられた神様の印は消えないんだ。あんたが微笑むたびに、あんたが泣くたびに、神様が現れる。「間違ってる間違ってる間違ってる間違ってる」と言い続けるおれ、いつも「おれ」と「おれ」がいたんだ。

 足音がする。餌の時間だ。ここに閉じ込められて、どのくらいになるだろう。やつらはあんたからおれを引き離して保護したとか何とか、嘘ばかり言ってるんだ。親父と言うやつもやって来たけど、あんな顔は知らない。これはおれを試す罠なんだよ。そうじゃなきゃ、見知らぬやつらが親切にしたり、微笑みかけるなんてこと、あり得ないじゃないか。

 おれは木工用ナイフをふりあげた。やつらがひるんだ隙に駆け出した。廊下を走り抜け、外に出る。門の外へ走り出ると、見覚えのある景色が広がる。これでようやく帰れる。

不思議だね。あれほど息苦しくて嫌だった場所なのに、離れすぎるとひどく不安になる。腹が減りすぎてふらふらするが、なんとかバランスをとって、倒れないように前へ進む。手には木工用ナイフを握りしめたままだ。

 あんたに早く会いたいよ。なぜか今、思い出してる。おれの所に訪れたものたち。落ち葉の湿った音をたてながら近寄り、身体をがんじがらめにし、這い回り蠢いていたおびただしい虫たち。あんたがおれを震わす虫だった。

 今から帰るよ。今度こそ、このナイフであんたの胸に深く、おれの名前を刻むよ。あんたが土の中で膨れて、やがて腐って土になっても、永遠におれの物になる。泣きもしない、命令もしない、物言わないおれの虫になる。

神様はやっぱり許してくれないだろうけど。

ねえ、母さん。

  Sign おわり
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