第33話 不眠
文字数 4,065文字
久遠あやを殺した犯人は吉沢だった。
佑司が気付いてからすぐのことだった。
警察も調べていたのだ。
久遠あやは幸福印刷の下請け会社の事務をしていた。
吉沢は営業に行き、彼女と出会って不倫関係になった。
彼は同期の佑司にいつも遅れをとっているし、部下は自分をバカにしている。リストラされるのは自分だとずっと怯えていた。
そんなとき、久遠あやは別れを切り出し、お金を要求した。
断れば会社や吉沢の家族にバラすと脅したのだ。
だから発作的にかっとなって殺してしまったと、吉沢は涙ながらに自供した。そして殺して逃げ去ったすぐ後に、佑司がチャイムを鳴らしたのだった。
佑司はあくびをした。眠れない。
吉沢のことはショックだったが、それよりもなお、息子のシュウのことが気掛かりだった。
「あらあら、大きなあくび」
森木佐那が笑った。「はい、焼きなす」と、差し出された皿を受け取る。
カウンター席には彼だけしか座ってなかった。
佐那は今回の事件は知っていないのだろうかと思ったが、もし知っていたとしても彼女は自分から聞いたり、話したりはしないだろう。
自分のことや面白い話をますます話術で面白くして人を笑わせ、さりげなく気を遣ってくれる。
それは必ずしも仕事だからという感じではなかった。彼女がそういう人だった。だから彼は惹かれたのだ。
佐那とはなごやかな普通の会話ができる。なによりも彼が癒される思いだった。
広美は主張するから、ずっと会話がスムーズにうまくいかなかった。
このまますっかり広美たちのことを忘れ去れたら楽だろうなという思いもよぎる。
佐那がバードウォッチングで見た野鳥の話を楽しそうにしていたとき、携帯が鳴った。
広美からだった。彼女が電話してくるのは初めてのことだった。
「シュウは帰ってきたから」と言った。
彼が探していることを知っていて、気にかけていたのだろうと思った。
そんな妻の行為に、先にかすかに光が見えてきたような気がした。
佐那は電話を気にした様子だったが、他の客に料理を運んで行った。
「バードウォッチングに今度いっしょにいかが?」と言われたことがある。
しかし、いっしょに行くことはこれからもないだろうということは、彼自身がよくわかっていた。
翌日、彼は仕事を休み、広美のところへ行った。
会社はいい顔はしないが、今は彼は仕事が手につかなかった。なんとしてもシュウを救わなければという思いしかなかった。
ところが行ってみると、シュウがいない。
広美に聞くと、保護施設にいるという。シュウが見つかったのは、通行人のバッグをひったくり捕まったからだという。
犯行に使った自転車も盗品だった。
「あの子は本当はいい子なの。でも悪いことしたのなら罰として、ひとりになって神様に謝って反省しなくちゃいけないんですよ。だから相談所に預けたの。向こうは一時保護って言ってたけど」
「おまえ、それはシュウにとってここの環境が悪いから、保護したんだよ」
彼は本当に腹がたった。光が見えたと思えた自分にもがっかりした。広美は相変わらず神様ばかりだ。
いったい誰のせいで、家族がバラバラになり、息子が非行に走ったんだと怒鳴りたい気持ちを抑えるのがやっとだった。
そしてひとりですぐに保護施設へと向かった。
補導先で久しぶりに見るシュウはずいぶん背が伸びていた。
骨格も大きくなっている。何よりも無事でいてくれたことに安堵した。
彼は佑司を見ても、ほとんど反応しなかった。対面しても下を向いたまま座り、手をいじっている。
「シュウ、どうしたんだ」
「ごめんなさい、心配かけて」
彼は素直に謝った。
申し訳無さそうに落ち込んでいる様子を見ると、ひったくりや万引きなどやって補導されたというのも本当なんだろうかと思う。
「悪い友だちにそそのかされて、ついやったんだろ?」と、佑司が言うと、彼は黙って頷いた。
この施設人の話では、きのう来て以来、食事に手をつけなくて困っていると言う。よほどショックだったんだろうと思った。
「お父さんところに来ないか?」
佑司は思いきってそう言った。
息子といっしょに暮らすとなれば、今までのように自分の仕事に合わせた生活ばかりはしていられないが、こうなっては広美のところには置いておけないと思ったからだ。
シュウはしばらく下を向いたままだったが、「あそこにいるよ」とつぶやくように言った。
「お母さんに気を遣わなくてもいいんだぞ。おまえが好きに決めたらいいんだ」
「うん」
そう彼は返事をしたが、それ以上何も言わない。
佑司は彼がすぐ自分と暮らす方を選ぶと思っていたから、少し動揺した。
「どうしてだ?あそこが、あんなところが好きなわけじゃないだろう?」
結局、シュウは自分と暮らすとは言わなかった。
いったい本当の彼の気持ちはどうなのかわからない。
施設を出て歩きながら、8年だ、とつぶやく。
長い年月がずいぶん家族を遠いものにした。一緒に暮らしていればわかったのだろうか。
だが、このままにはしておけないと思う気持ちは変わらなかった。
これまでの佑司なら、家族がそうしたいのならと半ばあきらめて強制することもなく、言い分を受け入れた。
だがいまは、息子を救えるのは自分しかいないのだという強い思いが、彼を変えていた。
携帯が鳴る。
アキからだった。シュウのことを気にしてかけてきたのだ。
シュウを自分といっしょに暮らさせるつもりだと言うと、アキはそれがシュウのためになるならそうしたらと言った。
これが反抗ばかりしていたアキの言葉だろうかと、「どうしたんだ?」と笑うと、さらにアキは言った。
「私、働き出してから、わかったことがあるんだ。
会社勤めしてたら、嫌なことなんていっぱいあるけど、生活のためとか、家族のためだったりとか、働き続けていかなくちゃいけない。
8年間も、お父さんは真っ暗な家に帰って、自分で明りをつけながら、それをやってきたんだって」
佑司はアキの言葉に胸が熱くなった。
すっかり日が暮れていた。
広美は真っ暗な部屋で座り込んでいる。
「つけないでくださいよ」
電気をつけようとした佑司に、彼女は力なくつぶやいた。
「おまえ…」
「そんなに、私がいけなかったんでしょうか」
絶望したような声だった。
「本当に求めたものが見つかったと思ってたのに」
「いったい何を求めてたんだ?愛だとかいうのか?」
佑司は真っ暗な部屋の入り口で立ったままだ。
「そういえば、ここにくればみんな幸せになれると言ってたよな」
彼はやさしく言おうと思ってはいるが、どうしても非難めいた口調になっているのが、自分でもわかった。
「あなた、まだわからないんですね」
「なんだ?」
「あなたは昔っから、見ようとしない人だったから」
「何言ってるんだ。この8年、おれがどれだけ悩んできたかわからないのか。
おまえが呑気な絵をはがきに描いてるときに、おれは営業先で頭を下げて、上司にしかられて、仕送りのために減った給料心配して、ひとりでメシ食って」
「どうしてそれを言わなかったんですか?そう言えばよかったのに。
でも、そう言って、私がどう言うか、そんな関心すらなかったんですよね」
佑司は反論しようとしたが、彼女は言葉を続けた。
「どうせまた神様神様って言うんだろうとか、おかしいとか思ってるから。
外の世界の人たちはみんな、私たち会の人間を変だと思って見ないようにしてるし、言ってることを聞かないし、目も耳も閉じてるのに…」
独り言のように言いながら、くすりと笑った。
「…でも、口は開けるの。私たちを全部否定するために」
広美の言葉を聞くうちに、彼は憎しみが自分の中でどんどん強くなっていくのを感じていた。
* *
時計は午前2時をまわろうとしている。
佑司は目頭を押さえた。
「すまない、ずいぶん長話を」
『いいさ、話して眠れるようになるなら。しかし時枝、おまえも大変なんだなあ。それでどうした?シュウくんといっしょに暮らすことにしたのか?』と、電話の相手は言った。
「実は…おれは」
佑司は大きく一呼吸した。
「人を、殺した」
『え?』
相手の声色が変わった。
「殺すつもりなんてなかったのに、まさか…」
彼はまたも思い返す。
「…でも、口は開けるの。私たちを全部否定するために」
広美が独り言のように言いながら、くすりと笑ったときのことだった。
走ってくる足音がし、小さくうなるような声を聞いた。
振り上げられた手の影が見え、佑司はとっさに身体を翻し、その腕を掴んだ。その手の先にはナイフが光る。
一瞬のことだった。
そして、佑司はあの夢のとおりに、月明かりに照らされたその顔をはっきりと見る前にすべてを理解した。
が、それは、彼の手に握られた奪い取ったナイフが、シュウの胸に突き刺さった後のことだった。
それからどれくらい時間が経ったのだろうか。
佑司と広美は、畳に横たえられたシュウの遺体を挟むように座りこんでいる。
彼らは泣くのも忘れ、放心状態でいた。
広美が口を開いた。自分が襲われてとっさに刺してしまったことにするからと言った。
そんなことできるはずもなく、彼は思いつめた彼女を説得するためについ「神様に背けないじゃないか」と言ったが、広美は佑司を一心に見つめ「それでもかまわない」と言った。
佑司の目に、涙がポロポロと溢れた。広美と佑司は共に泣いた。
「ひどいもんだ。息子を救おうとしたのに、あの夢のように殺すのが、このおれだったなんて」
彼は視線を落とした。
畳にゆっくりと座り込む。
シュウが目の前に横たわっている。
広美はシュウの身体から流れた血を、やさしくなでるように拭き取っていた。
「聞いてくれて、ありがとうな。荻島」と、佑司は携帯で言いながら、片方の手でシュウの手を握った。
そして広美もまた、その佑司とシュウの手を包むように握りしめた。
「朝になったら、警察に行くよ」
「そうか」
ヒジリの父、荻島孝之はそう言って、携帯を切った。
無表情なその顔は、薄暗い中、ときおり緑色の明りにぼんやりと照らし出されていた。
「不眠」 おわり
佑司が気付いてからすぐのことだった。
警察も調べていたのだ。
久遠あやは幸福印刷の下請け会社の事務をしていた。
吉沢は営業に行き、彼女と出会って不倫関係になった。
彼は同期の佑司にいつも遅れをとっているし、部下は自分をバカにしている。リストラされるのは自分だとずっと怯えていた。
そんなとき、久遠あやは別れを切り出し、お金を要求した。
断れば会社や吉沢の家族にバラすと脅したのだ。
だから発作的にかっとなって殺してしまったと、吉沢は涙ながらに自供した。そして殺して逃げ去ったすぐ後に、佑司がチャイムを鳴らしたのだった。
佑司はあくびをした。眠れない。
吉沢のことはショックだったが、それよりもなお、息子のシュウのことが気掛かりだった。
「あらあら、大きなあくび」
森木佐那が笑った。「はい、焼きなす」と、差し出された皿を受け取る。
カウンター席には彼だけしか座ってなかった。
佐那は今回の事件は知っていないのだろうかと思ったが、もし知っていたとしても彼女は自分から聞いたり、話したりはしないだろう。
自分のことや面白い話をますます話術で面白くして人を笑わせ、さりげなく気を遣ってくれる。
それは必ずしも仕事だからという感じではなかった。彼女がそういう人だった。だから彼は惹かれたのだ。
佐那とはなごやかな普通の会話ができる。なによりも彼が癒される思いだった。
広美は主張するから、ずっと会話がスムーズにうまくいかなかった。
このまますっかり広美たちのことを忘れ去れたら楽だろうなという思いもよぎる。
佐那がバードウォッチングで見た野鳥の話を楽しそうにしていたとき、携帯が鳴った。
広美からだった。彼女が電話してくるのは初めてのことだった。
「シュウは帰ってきたから」と言った。
彼が探していることを知っていて、気にかけていたのだろうと思った。
そんな妻の行為に、先にかすかに光が見えてきたような気がした。
佐那は電話を気にした様子だったが、他の客に料理を運んで行った。
「バードウォッチングに今度いっしょにいかが?」と言われたことがある。
しかし、いっしょに行くことはこれからもないだろうということは、彼自身がよくわかっていた。
翌日、彼は仕事を休み、広美のところへ行った。
会社はいい顔はしないが、今は彼は仕事が手につかなかった。なんとしてもシュウを救わなければという思いしかなかった。
ところが行ってみると、シュウがいない。
広美に聞くと、保護施設にいるという。シュウが見つかったのは、通行人のバッグをひったくり捕まったからだという。
犯行に使った自転車も盗品だった。
「あの子は本当はいい子なの。でも悪いことしたのなら罰として、ひとりになって神様に謝って反省しなくちゃいけないんですよ。だから相談所に預けたの。向こうは一時保護って言ってたけど」
「おまえ、それはシュウにとってここの環境が悪いから、保護したんだよ」
彼は本当に腹がたった。光が見えたと思えた自分にもがっかりした。広美は相変わらず神様ばかりだ。
いったい誰のせいで、家族がバラバラになり、息子が非行に走ったんだと怒鳴りたい気持ちを抑えるのがやっとだった。
そしてひとりですぐに保護施設へと向かった。
補導先で久しぶりに見るシュウはずいぶん背が伸びていた。
骨格も大きくなっている。何よりも無事でいてくれたことに安堵した。
彼は佑司を見ても、ほとんど反応しなかった。対面しても下を向いたまま座り、手をいじっている。
「シュウ、どうしたんだ」
「ごめんなさい、心配かけて」
彼は素直に謝った。
申し訳無さそうに落ち込んでいる様子を見ると、ひったくりや万引きなどやって補導されたというのも本当なんだろうかと思う。
「悪い友だちにそそのかされて、ついやったんだろ?」と、佑司が言うと、彼は黙って頷いた。
この施設人の話では、きのう来て以来、食事に手をつけなくて困っていると言う。よほどショックだったんだろうと思った。
「お父さんところに来ないか?」
佑司は思いきってそう言った。
息子といっしょに暮らすとなれば、今までのように自分の仕事に合わせた生活ばかりはしていられないが、こうなっては広美のところには置いておけないと思ったからだ。
シュウはしばらく下を向いたままだったが、「あそこにいるよ」とつぶやくように言った。
「お母さんに気を遣わなくてもいいんだぞ。おまえが好きに決めたらいいんだ」
「うん」
そう彼は返事をしたが、それ以上何も言わない。
佑司は彼がすぐ自分と暮らす方を選ぶと思っていたから、少し動揺した。
「どうしてだ?あそこが、あんなところが好きなわけじゃないだろう?」
結局、シュウは自分と暮らすとは言わなかった。
いったい本当の彼の気持ちはどうなのかわからない。
施設を出て歩きながら、8年だ、とつぶやく。
長い年月がずいぶん家族を遠いものにした。一緒に暮らしていればわかったのだろうか。
だが、このままにはしておけないと思う気持ちは変わらなかった。
これまでの佑司なら、家族がそうしたいのならと半ばあきらめて強制することもなく、言い分を受け入れた。
だがいまは、息子を救えるのは自分しかいないのだという強い思いが、彼を変えていた。
携帯が鳴る。
アキからだった。シュウのことを気にしてかけてきたのだ。
シュウを自分といっしょに暮らさせるつもりだと言うと、アキはそれがシュウのためになるならそうしたらと言った。
これが反抗ばかりしていたアキの言葉だろうかと、「どうしたんだ?」と笑うと、さらにアキは言った。
「私、働き出してから、わかったことがあるんだ。
会社勤めしてたら、嫌なことなんていっぱいあるけど、生活のためとか、家族のためだったりとか、働き続けていかなくちゃいけない。
8年間も、お父さんは真っ暗な家に帰って、自分で明りをつけながら、それをやってきたんだって」
佑司はアキの言葉に胸が熱くなった。
すっかり日が暮れていた。
広美は真っ暗な部屋で座り込んでいる。
「つけないでくださいよ」
電気をつけようとした佑司に、彼女は力なくつぶやいた。
「おまえ…」
「そんなに、私がいけなかったんでしょうか」
絶望したような声だった。
「本当に求めたものが見つかったと思ってたのに」
「いったい何を求めてたんだ?愛だとかいうのか?」
佑司は真っ暗な部屋の入り口で立ったままだ。
「そういえば、ここにくればみんな幸せになれると言ってたよな」
彼はやさしく言おうと思ってはいるが、どうしても非難めいた口調になっているのが、自分でもわかった。
「あなた、まだわからないんですね」
「なんだ?」
「あなたは昔っから、見ようとしない人だったから」
「何言ってるんだ。この8年、おれがどれだけ悩んできたかわからないのか。
おまえが呑気な絵をはがきに描いてるときに、おれは営業先で頭を下げて、上司にしかられて、仕送りのために減った給料心配して、ひとりでメシ食って」
「どうしてそれを言わなかったんですか?そう言えばよかったのに。
でも、そう言って、私がどう言うか、そんな関心すらなかったんですよね」
佑司は反論しようとしたが、彼女は言葉を続けた。
「どうせまた神様神様って言うんだろうとか、おかしいとか思ってるから。
外の世界の人たちはみんな、私たち会の人間を変だと思って見ないようにしてるし、言ってることを聞かないし、目も耳も閉じてるのに…」
独り言のように言いながら、くすりと笑った。
「…でも、口は開けるの。私たちを全部否定するために」
広美の言葉を聞くうちに、彼は憎しみが自分の中でどんどん強くなっていくのを感じていた。
* *
時計は午前2時をまわろうとしている。
佑司は目頭を押さえた。
「すまない、ずいぶん長話を」
『いいさ、話して眠れるようになるなら。しかし時枝、おまえも大変なんだなあ。それでどうした?シュウくんといっしょに暮らすことにしたのか?』と、電話の相手は言った。
「実は…おれは」
佑司は大きく一呼吸した。
「人を、殺した」
『え?』
相手の声色が変わった。
「殺すつもりなんてなかったのに、まさか…」
彼はまたも思い返す。
「…でも、口は開けるの。私たちを全部否定するために」
広美が独り言のように言いながら、くすりと笑ったときのことだった。
走ってくる足音がし、小さくうなるような声を聞いた。
振り上げられた手の影が見え、佑司はとっさに身体を翻し、その腕を掴んだ。その手の先にはナイフが光る。
一瞬のことだった。
そして、佑司はあの夢のとおりに、月明かりに照らされたその顔をはっきりと見る前にすべてを理解した。
が、それは、彼の手に握られた奪い取ったナイフが、シュウの胸に突き刺さった後のことだった。
それからどれくらい時間が経ったのだろうか。
佑司と広美は、畳に横たえられたシュウの遺体を挟むように座りこんでいる。
彼らは泣くのも忘れ、放心状態でいた。
広美が口を開いた。自分が襲われてとっさに刺してしまったことにするからと言った。
そんなことできるはずもなく、彼は思いつめた彼女を説得するためについ「神様に背けないじゃないか」と言ったが、広美は佑司を一心に見つめ「それでもかまわない」と言った。
佑司の目に、涙がポロポロと溢れた。広美と佑司は共に泣いた。
「ひどいもんだ。息子を救おうとしたのに、あの夢のように殺すのが、このおれだったなんて」
彼は視線を落とした。
畳にゆっくりと座り込む。
シュウが目の前に横たわっている。
広美はシュウの身体から流れた血を、やさしくなでるように拭き取っていた。
「聞いてくれて、ありがとうな。荻島」と、佑司は携帯で言いながら、片方の手でシュウの手を握った。
そして広美もまた、その佑司とシュウの手を包むように握りしめた。
「朝になったら、警察に行くよ」
「そうか」
ヒジリの父、荻島孝之はそう言って、携帯を切った。
無表情なその顔は、薄暗い中、ときおり緑色の明りにぼんやりと照らし出されていた。
「不眠」 おわり
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)
(ログインが必要です)