第12話 虫カゴ
文字数 3,696文字
塀に『元橋』という表札がある。そのとなりのチャイムを押して、中をうかがった。門からすぐの所に玄関がある。ふと2階に目をやったとき隠れる人影が見え、どきりとした。私を見ていたのだろうか。
「はい?」
玄関が開いてエプロン姿の女の人が現れた。
「こんにちは。あの、マヤさん。いますか?」
「あの、学校の方?」
「ええ」とあいまいに言った。
どうやら本当にマヤはいるらしい。
「ごめんなさいね。マヤは誰とも会いたくないって…」
「そうですか…」と、私は帰ろうとした。
「ママ。上がってもらって」
2階から声がして顔を上げると、私と同じ年ぐらいの女の子が、カーテンの間から顔をのぞかせていた。
彼女がマヤだった。
「こんにちは。あの、私…」
「べつに名乗らなくていいから。だって、知ってもどうってことないし…」
マヤは窓の側に座った。近くで見ると年下のような気がしたけど、雰囲気はずいぶん大人びたものがある。
カーテンを中途半端に閉めている彼女の部屋は暗かった。散らかってるわけじゃないけど、本棚も本が逆さまに入れられてたり上に積まれたり、雑誌があちこちに置かれてたり、整理されてないごちゃまぜの感じだった。
「でもね、私、あなたのこと知ってるんだ」と、彼女は窓の方を見た。彼女の頭越しにちょうど、車で待っているマシタが見えた。
「あの人とつきあってる?」
マヤは車の方を指した。
「ううん」
「なんだ、違うの。けっこういけてるのに」
「いつもここから見てるの?」
「ホントはつきあってんでしょ?さっきもいい感じだったじゃない」と、彼女は笑った。
「どうして見てるの?」
「ロクの友だちでしょ?あなた、前にライブのときに見たよ」
ここでロクの名前を聞くとは思わなかった。ロクはバンドでヴォーカルやってる同じクラスの友だちだ。ライブやる前は曲作りと練習で頭がいっぱいで、普段なら書道の時間には墨で絵を描いたりとか2人でふざけるのに、かまってくれなかった。この夏休みももうすぐライブをやるから、ひたすらリハに明け暮れているはずだ。
「トラッシュのファンなの?あのクズの」
トラッシュとはロクたちのバンド名だ。
「クズなんて」と、マヤは初めて子どもっぽいすねた顔をした。
「トラッシュの意味よ。クズ。がらくた。やくたたず。ロクのシュミよ、汚いのが好きな」ロクは好きなバンドのせいか、汚ければ汚いほどカッコいいと思ってる。
「へえ…知らなかった」
「あなた隣の女子高のコ?」
マヤは首を横に振った。
彼女は中学3年だった。でももう3か月間ずっと学校には行ってない。部屋にこもってスマホを手に本を読んだり、音楽聞いたり、テレビを見たりしていた。それまでは普通に登校していたという。勉強とテニスの部活に追われる忙しい毎日だった。受験を控えていたが、中学最後の春季大会までは両立してがんばった。そして大会が終った。彼女は2回戦までいった。つまり1回だけ勝って終ったということだ。
それから緊張がゆるんだようにずるずる学校を休み、行かなくなったという。好きなときに寝て起きる毎日、親は無理にでも学校へ行けとは言わなかったけど、「どうして?」と問いかけるし、いつも気にしている意識だけはかなり伝わってきたから、よけい顔を合わすのが嫌で部屋から出なくなった。今が何時なのかわからないときもあるけれど、どうでもいいような気にもなった。窓から見る外の風景や音は、自分とは別の世界のものでしかなかったと、彼女は話した。
私は彼女がロクのこと好きなのは、なんかわかる気がした。ロクは見た目は派手だし、言いたいこと勝手に言ってるみたいだけど、実は自分の気持ちとかはあんまり言わない。内気なところを隠してるんだ。それが彼の書く歌詞に現れてる。彼はきっと歌ってるときだけ、感情を露にし、彼そのものになれるはずだ。マヤはそんなロクと同じ感情を知ってる気がした。
「なんか、どんなにがんばっても、たいしたことないなあって…」
どきりとした。それはまるで、ビルの屋上に集まる私たちの本心を、代弁してくれたみたいな言葉だった。たぶん10代にしてもう、私たちは老いてる。自分の人生を見切ってしまってる。親の生活見ていて、ああなりたいなんて思わない。いつもそんなたいして幸せそうじゃないし、たいして不幸せそうでもない。どってことないんだ。とりたてて言うほどでもない人生って感じ。
誰かが言ってた。人はみんないつかは死ぬ、生まれた瞬間からみんな死に向かっている。人生の行き着くところ、最終目的は死ぬこと。だからそれを一瞬でも忘れるために、みんないろいろな生活の細々したことに意識を向けて、死を見ないように、忘れるようにしているって。
多分それは、だからこそ日々を豊かなものにしようとか肯定的な意味で言ったんだと思うけど、私には行き場のない閉塞感みたいなものしか感じられなかった。
「だから、なにかしたの?」
私はマヤというこの女の子に共鳴できる部分に触れ、やっと話をきりだすきっかけを見つけた。
「このあたり、よく事故が起きるでしょう?」
「それと私がなにか関係あるの?」
マヤは不審気に声を低くした。
「それが知りたいんだ。いつもカーテンをこうやって、少し開けたままにしてるでしょ」
「へえ…、チェックしてるんだ」
「どうして?」
マヤの顔に緊張が感じられた。
「誰かに私のこと、聞いたんでしょ。誰に聞いたの?」
誰にと言われても、さっきのあのことがどうにも説明がつかない。マシタだけど、マシタじゃない誰かだったなんて、言ってもおかしいとしか思われない。
「私、世の中にはどんなことがあったって、不思議はないと思ってる」
キャロリーンのことを信じ始めている自分がいた。私は心のどこかで、その苔のせいだと信じることで、アイラが生き返るかもしれないと思いたかった。
「不思議はない、か」
マヤがつぶやくように言った。
「じゃあ、あなたの身体を、別の誰かが勝手に使ったとしても不思議じゃない?」
「そんな…」信じられないと、つい言葉が出た。
「ほら。不思議はあるでしょ」と、マヤは笑顔をみせたようだったけど、ちっとも笑ってないから、まるで顔を歪ませているように見えた。
「あなたはそれができるっていうの?」
そう言いながら、さっきのマシタならあり得そうに思えた。
「できるからって、だからどうなるもんでもないでしょ。人の身体に入ったって、その人と一体になれるわけじゃない。ただの道具にしかならないのに」
「道具として楽しむってわけ?」
「楽しむ?まさか。怒ってるのに」
彼女はじっと私を見たが、ふっとまた窓の方を向いた。
「人のことは誰にもわからない。私のことを誰もわからないようにね」
マヤは心を閉ざしていると思った。人を遮断して、ひがみきった自分だけの世界にいるって。悩んでいるだけで解決できるならコトは簡単だ。悩んで閉じこもっていても、何にも解決しない。外側の社会はあんたの内面がどうあろうと、関係ないのにつまんないよと言ってあげたくなった。だから私はやさしくしてあげたかった。
「ロクたち、もうすぐまたライブやるの。今度チケット持って来てあげる」
帰り際にそう声をかけた。
「つまり、マヤというコが僕の身体を使ったというの?」
車で待っていたマシタに話すと、彼は半ばあきれたように聞き返した。
「私じゃないよ、彼女が言ったの。そうかもしれないってこと」
「なんで?」
「ひきこもってておもしろくなかったから、誰かと話したかったんじゃない?それとも、自分がそういうことができるんだって、アピールしたかったのかも」
「じゃあマヤがおばあさんを、老人ホームの人たちを、あそこに閉じこもったまま、のり移って殺したんだね」
「信じてないんだ」
「いや、信じるよ。もしいまここにいるきみが、病院にいるお母さんにのり移ったらね」
「だったら、どうしてさっきマヤの名前を言ったの?私もいつもカーテンが中途半端に開いてるあの家のコの名前なんて、初めて知ったよ」
「まさか僕が?」
「言った」キスまでしたとは、何だか言いにくかった。
「まさか、僕だって知らないよ」と、彼は少し笑った。「男の子は?きみは最初、男の子があやしいと言ってた」
どうやらマシタはまったく信じていないようだった。そして、さっき私にしたことも覚えてない。
「あやしいっていうか」
何だか不機嫌になった。
「何か関係があるのかなって思ったんだよ」
「なに、むくれてるの」
マシタはおかしそうに笑った。私は彼の口元をずっと見ていた。あの唇が私にキスをしてきたのだ。なんだか今になって鼓動が高まる。
中学のとき、同級生の男の子と初めてキスしたことがあった。好きでたまらないってわけじゃなかった。好奇心だったり、なりゆきだったりした感じだけど、その同級生の男の子は最初、おそるおそるキスした。そして今度は私が彼にそっとキスすると、今度は強くキスしてきた。口のまわりがだ液でぐちょって感じで、嫌だなと思ったことの方が強かった。
さっきのマシタのキスは、それになんだか似ていたように思えた。
「はい?」
玄関が開いてエプロン姿の女の人が現れた。
「こんにちは。あの、マヤさん。いますか?」
「あの、学校の方?」
「ええ」とあいまいに言った。
どうやら本当にマヤはいるらしい。
「ごめんなさいね。マヤは誰とも会いたくないって…」
「そうですか…」と、私は帰ろうとした。
「ママ。上がってもらって」
2階から声がして顔を上げると、私と同じ年ぐらいの女の子が、カーテンの間から顔をのぞかせていた。
彼女がマヤだった。
「こんにちは。あの、私…」
「べつに名乗らなくていいから。だって、知ってもどうってことないし…」
マヤは窓の側に座った。近くで見ると年下のような気がしたけど、雰囲気はずいぶん大人びたものがある。
カーテンを中途半端に閉めている彼女の部屋は暗かった。散らかってるわけじゃないけど、本棚も本が逆さまに入れられてたり上に積まれたり、雑誌があちこちに置かれてたり、整理されてないごちゃまぜの感じだった。
「でもね、私、あなたのこと知ってるんだ」と、彼女は窓の方を見た。彼女の頭越しにちょうど、車で待っているマシタが見えた。
「あの人とつきあってる?」
マヤは車の方を指した。
「ううん」
「なんだ、違うの。けっこういけてるのに」
「いつもここから見てるの?」
「ホントはつきあってんでしょ?さっきもいい感じだったじゃない」と、彼女は笑った。
「どうして見てるの?」
「ロクの友だちでしょ?あなた、前にライブのときに見たよ」
ここでロクの名前を聞くとは思わなかった。ロクはバンドでヴォーカルやってる同じクラスの友だちだ。ライブやる前は曲作りと練習で頭がいっぱいで、普段なら書道の時間には墨で絵を描いたりとか2人でふざけるのに、かまってくれなかった。この夏休みももうすぐライブをやるから、ひたすらリハに明け暮れているはずだ。
「トラッシュのファンなの?あのクズの」
トラッシュとはロクたちのバンド名だ。
「クズなんて」と、マヤは初めて子どもっぽいすねた顔をした。
「トラッシュの意味よ。クズ。がらくた。やくたたず。ロクのシュミよ、汚いのが好きな」ロクは好きなバンドのせいか、汚ければ汚いほどカッコいいと思ってる。
「へえ…知らなかった」
「あなた隣の女子高のコ?」
マヤは首を横に振った。
彼女は中学3年だった。でももう3か月間ずっと学校には行ってない。部屋にこもってスマホを手に本を読んだり、音楽聞いたり、テレビを見たりしていた。それまでは普通に登校していたという。勉強とテニスの部活に追われる忙しい毎日だった。受験を控えていたが、中学最後の春季大会までは両立してがんばった。そして大会が終った。彼女は2回戦までいった。つまり1回だけ勝って終ったということだ。
それから緊張がゆるんだようにずるずる学校を休み、行かなくなったという。好きなときに寝て起きる毎日、親は無理にでも学校へ行けとは言わなかったけど、「どうして?」と問いかけるし、いつも気にしている意識だけはかなり伝わってきたから、よけい顔を合わすのが嫌で部屋から出なくなった。今が何時なのかわからないときもあるけれど、どうでもいいような気にもなった。窓から見る外の風景や音は、自分とは別の世界のものでしかなかったと、彼女は話した。
私は彼女がロクのこと好きなのは、なんかわかる気がした。ロクは見た目は派手だし、言いたいこと勝手に言ってるみたいだけど、実は自分の気持ちとかはあんまり言わない。内気なところを隠してるんだ。それが彼の書く歌詞に現れてる。彼はきっと歌ってるときだけ、感情を露にし、彼そのものになれるはずだ。マヤはそんなロクと同じ感情を知ってる気がした。
「なんか、どんなにがんばっても、たいしたことないなあって…」
どきりとした。それはまるで、ビルの屋上に集まる私たちの本心を、代弁してくれたみたいな言葉だった。たぶん10代にしてもう、私たちは老いてる。自分の人生を見切ってしまってる。親の生活見ていて、ああなりたいなんて思わない。いつもそんなたいして幸せそうじゃないし、たいして不幸せそうでもない。どってことないんだ。とりたてて言うほどでもない人生って感じ。
誰かが言ってた。人はみんないつかは死ぬ、生まれた瞬間からみんな死に向かっている。人生の行き着くところ、最終目的は死ぬこと。だからそれを一瞬でも忘れるために、みんないろいろな生活の細々したことに意識を向けて、死を見ないように、忘れるようにしているって。
多分それは、だからこそ日々を豊かなものにしようとか肯定的な意味で言ったんだと思うけど、私には行き場のない閉塞感みたいなものしか感じられなかった。
「だから、なにかしたの?」
私はマヤというこの女の子に共鳴できる部分に触れ、やっと話をきりだすきっかけを見つけた。
「このあたり、よく事故が起きるでしょう?」
「それと私がなにか関係あるの?」
マヤは不審気に声を低くした。
「それが知りたいんだ。いつもカーテンをこうやって、少し開けたままにしてるでしょ」
「へえ…、チェックしてるんだ」
「どうして?」
マヤの顔に緊張が感じられた。
「誰かに私のこと、聞いたんでしょ。誰に聞いたの?」
誰にと言われても、さっきのあのことがどうにも説明がつかない。マシタだけど、マシタじゃない誰かだったなんて、言ってもおかしいとしか思われない。
「私、世の中にはどんなことがあったって、不思議はないと思ってる」
キャロリーンのことを信じ始めている自分がいた。私は心のどこかで、その苔のせいだと信じることで、アイラが生き返るかもしれないと思いたかった。
「不思議はない、か」
マヤがつぶやくように言った。
「じゃあ、あなたの身体を、別の誰かが勝手に使ったとしても不思議じゃない?」
「そんな…」信じられないと、つい言葉が出た。
「ほら。不思議はあるでしょ」と、マヤは笑顔をみせたようだったけど、ちっとも笑ってないから、まるで顔を歪ませているように見えた。
「あなたはそれができるっていうの?」
そう言いながら、さっきのマシタならあり得そうに思えた。
「できるからって、だからどうなるもんでもないでしょ。人の身体に入ったって、その人と一体になれるわけじゃない。ただの道具にしかならないのに」
「道具として楽しむってわけ?」
「楽しむ?まさか。怒ってるのに」
彼女はじっと私を見たが、ふっとまた窓の方を向いた。
「人のことは誰にもわからない。私のことを誰もわからないようにね」
マヤは心を閉ざしていると思った。人を遮断して、ひがみきった自分だけの世界にいるって。悩んでいるだけで解決できるならコトは簡単だ。悩んで閉じこもっていても、何にも解決しない。外側の社会はあんたの内面がどうあろうと、関係ないのにつまんないよと言ってあげたくなった。だから私はやさしくしてあげたかった。
「ロクたち、もうすぐまたライブやるの。今度チケット持って来てあげる」
帰り際にそう声をかけた。
「つまり、マヤというコが僕の身体を使ったというの?」
車で待っていたマシタに話すと、彼は半ばあきれたように聞き返した。
「私じゃないよ、彼女が言ったの。そうかもしれないってこと」
「なんで?」
「ひきこもってておもしろくなかったから、誰かと話したかったんじゃない?それとも、自分がそういうことができるんだって、アピールしたかったのかも」
「じゃあマヤがおばあさんを、老人ホームの人たちを、あそこに閉じこもったまま、のり移って殺したんだね」
「信じてないんだ」
「いや、信じるよ。もしいまここにいるきみが、病院にいるお母さんにのり移ったらね」
「だったら、どうしてさっきマヤの名前を言ったの?私もいつもカーテンが中途半端に開いてるあの家のコの名前なんて、初めて知ったよ」
「まさか僕が?」
「言った」キスまでしたとは、何だか言いにくかった。
「まさか、僕だって知らないよ」と、彼は少し笑った。「男の子は?きみは最初、男の子があやしいと言ってた」
どうやらマシタはまったく信じていないようだった。そして、さっき私にしたことも覚えてない。
「あやしいっていうか」
何だか不機嫌になった。
「何か関係があるのかなって思ったんだよ」
「なに、むくれてるの」
マシタはおかしそうに笑った。私は彼の口元をずっと見ていた。あの唇が私にキスをしてきたのだ。なんだか今になって鼓動が高まる。
中学のとき、同級生の男の子と初めてキスしたことがあった。好きでたまらないってわけじゃなかった。好奇心だったり、なりゆきだったりした感じだけど、その同級生の男の子は最初、おそるおそるキスした。そして今度は私が彼にそっとキスすると、今度は強くキスしてきた。口のまわりがだ液でぐちょって感じで、嫌だなと思ったことの方が強かった。
さっきのマシタのキスは、それになんだか似ていたように思えた。
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